12月20日更新

10月、6年ぶりに伊勢神宮へ行ってきました。
前回は平成30年。この間に年号は令和へと変わり、コロナ禍という未曽有の出来事も。
我が家にいた猫2匹犬2匹も、この6年のうちに相次いで亡くなりました。
どうも令和になって良いことがないように思えます。
験直し(げんなおし)のお参りでした。
今回は、外宮、内宮の他に中間地点にある猿田彦神社にも立ち寄りました。
参拝し、赤福を食べ、夜は地元で名店と言われる居酒屋へ。
本場の伊勢海老も、ちょっと奮発して味わいました。
翌日は鳥羽に移動し、鳥羽水族館のペンギンの散歩やラッコショーを見学。
この水族館の人気の高さが実感できました。

11月は京都へ。紅葉には少し早すぎましたが、どこも混んでいました。
中国、台湾、韓国、タイやフィリピンの人たちなどアジアの人が多いこと。
昔に比べ、ヨーロッパや中東の人たちも増えている感じです。
嵐山の渡月橋へと続く道は、歩行者天国でも道路一杯に人波が・・・。
ただし周辺の混雑も、映えスポットの竹林の道、野々宮神社まで。
いわゆる奥嵯峨に足を延ばすと、嘘のように人がまばらになります。
海外の人は、1日を嵐山見物に割くスケジュール的余裕がないのでしょう。
嵯峨野の散策は何度も経験済みですが、これまでで一番すいていました。
紅葉が盛りならば、見ごたえのある常寂光寺や祇王寺にも立ち寄りますが、
今回は二尊院だけにしました。境内にも観光客はほとんどいませんでした。
ご本尊の釈迦、阿弥陀の二尊を、こんなにゆっくり愛でたのは初めのことです。
ここは見事な鐘が突けるという特典もあります。これが実に良い音色なのです。
ただし有名な「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、やっと色づき始めたばかりでした。
そこで翌日は、「紅葉が唯一見頃」とネット情報にあった南禅寺の天授庵へ。
訪れたのは10年ぶり位でしょうか。池泉回遊式庭園と紅葉を堪能しました。

12月は沖縄へ。いつもは恩納村のリゾートホテルに拠点を置くのですが、
今回は那覇、北谷(2泊)、本部半島とホテルを変えながら地域密着の取材を・・・。
国際通り周辺を、1日かけてじっくり見て廻ったのは初めてでした。
脇道に入るとレベルの高いセレクトショップや専門店が多く、びっくりしました。
そして事前情報も仕入れてはいましたが、その場で気に入った店に飛び込み、
昼間から飲み屋をはしごしました。どの店も「千ベロ」がウリ。
千円あればベロベロに酔えるというわけ。特に沖縄おでん、美味しかったです。
那覇のやちむん通り、読谷のやちむんの里、好きな窯元の値段を比べてみたところ・・・
一番安かったのは、なんと空港でした。もちろん空港は種類に限りがありますが。
人気のカフェも巡りました。一番魅力的だったのは星野リゾートのバンダカフェ。
シーズンオフだったので、人も少なく、半日ボーッと過ごせました。
「ガイアの夜明け」でも何度も取り上げた星野リゾートの戦略、流石です。
さらに北谷のアメリカンビレッジ。ディズニーランドには全く興味のわかない私も、
電飾だらけの派手なこの街には何だか心を奪われます。
そして北谷から見る夕日は、何回見ても飽きません。
海中道路をドライブした先にある宮城島の「ぬちまーす(命の塩)」の工場と、
その断崖絶壁の絶景、「果報バンダ」も印象深かったです。
沖縄料理を食べ、泡盛の古酒を飲み、美しい海を眺める。
私にはハワイやモルジブより、はるかに沖縄の方が魅力的に思えます。
来年も時間を見つけて、いろんなところへ出かけてみたいと思っております。

今年、地方局から賞レースに参加した3本がそれぞれ評価されました。
【鹿児島テレビ】の『20年目の花火』は民放連 テレビ教養部門でグランプリ。
【福井テレビ】の『私たちインドから来ました』はギャラクシー賞 奨励賞。
【テレビ新広島】の『アイ アム アトミックボム サバイバー ~小倉桂子が語り続ける理由~』も、
ギャラクシー賞 奨励賞。
どの作品も関わっていて楽しく、やりがいがありました。
『アイ アム アトミックボム サバイバー ~小倉桂子が語り続ける理由~』は、
TSSアーカイブに新たに追加されていますので、いつでも見ることができます。
時間があればご高覧ください。
【テレビ東京】の『ガイアの夜明け』も、
20年間プライムタイムで、経済ドキメンタリーを放送してきた功績と・・・
20周年企画としてシリーズで放送した「ガイアが見つめた20年」が認められ、
第49回放送文化基金賞を受賞しました。スタッフの一人として嬉しい限りです。

10月29日更新

人生をやり直せるとしたら、絶対にやりたいと思うことがいくつかあります。
そのひとつがペットを飼うこと。この20年の間に2匹の犬と2匹の猫と暮らしました。
そのうち10年ほどは4匹同時でした。ペットを飼うと大変なことも多々あります。
自分の調子が悪い時には、散歩も苦痛です。急にいなくなり探し回ったことも。
体調に変化があれば心配もし、病院に駆け込んだことも1度や2度ではありません。
その治療費だってばかになりません。人間より高いのです。
遠出の家族旅行も確実に減りました。誰かが家で面倒を見なければならないからです。
ま、そうしたことを差し引いても、余りある幸せな時間でした。
子供たちが中高生になってから最初のネコを飼うことになったのですが、
今思えば、もっと早く出会っていれば・・・。どれだけ4匹に癒され、楽しかったことか。
ペットを飼うのは、子供の情操教育にも良いと思います。是非お勧めします。
世話をする責任感、他者の命を大切にすることも学びます。
人間の何倍もの速さで生涯を駆け抜ける彼らの姿を傍で見ていると、
思わぬ気付きや考えさせられることが少なからずありました。

最後まで暮らしていたチワワが、先月亡くなりました。
ここ2年ほどは白内障にかかり、目が悪くなってからは外での散歩も減っていました。
足音を追ってちょこちょこ付いてくる姿に、愛犬家や子供たちが寄ってきます。
両手に乗ってしまうほど小さく、大抵赤ちゃんだと勘違いされました。
「お婆ちゃんだよ」と言うと、初めての人はみんなびっくりしたものです。
18年ほど前、ママ友のうちに7匹子犬が産まれた中で一番小さい子をもらってきました。
結局、兄弟の中で一番長生きしてくれました。最後は眠るように息を引き取りました。
こうして我が家からペットは居なくなりました。なんだか部屋が無駄に広く感じます。
ペットロス対策で一番効果があるのは、新たなペットを飼うことです。
でも、もう我が家は飼うことはないでしょう。責任を持って育てられないからです。
家のあちこちに、彼らの思い出が残っています。この20年、ありがとう。

民放連賞の教養部門:九州・沖縄地区で最優秀をとり、
全国にコマを進めっていた鹿児島テレビ制作の『20年目の花火』が、
全国大会で教養部門の最優秀賞(グランプリ)に選ばれました。

9月1日更新

記録的猛暑が続いた夏も終わろうとしています。
きょう昼間は猛暑日でしたが、夜帰宅の途中、鈴虫の音が聴こえて来ました。
季節は確実に移ろいでいます。そこで、春から夏を振り返り返ってみようと思いました。
5月から8月にかけ、地方局の仕事を何本か担当しました。
今や在京のキー局すら財政が逼迫するなか、地方局はなおさらのこと。
わざわざ遠方のスタッフを使うのは、費用もかかるというのにありがたいことです。
せめて、その期待に応えようと毎年頑張ってはいますが・・・
今年は鹿児島テレビ制作の「20年目の花火」が、民放連賞、九州・沖縄地区の教養部門で
最優秀をとり、全国審査へコマを進めました。
福井テレビ制作の「私たちインドから来ました」は、中部・北陸地区の教養部門で
最優秀を逃し、惜しくも優秀賞および審査員特別賞でした。最優秀作品とは1点差でした。
この民放連賞、各カテゴリー(報道・教養・エンターティメント・ドラマ・CM)があります。
ドラマなどはキー局や準キー局の独壇場ですが、報道・教養・エンターティメントには、
各県の放送局が軒並み出品するため、各地区各カテゴリー20~30のノミネートがあります。
そのなかで勝ち抜いて最優秀や優秀賞をとるのは、けして簡単なことではありません。
結果が残せて肩の荷が下りました。賞レースにはまだ参加していませんが、
テレビ新広島で制作した原爆特番も手応えのある作品でした。
今後何らかの賞に絡んでくると良いのですが・・・。
全ての作品でナレーション入れに立ち会いましたが、それぞれイメージ通りで、
「画竜点睛」作品をさらに魅力的なものに引き上げていただきました。
歳を重ねなければ出せない味。初々しいひたむきさ。若者らしい誠実なまなざし。
改めてナレーターの存在は大きいなと感じました。
そうした仕事の合間に・・・
祇園祭直前の京都や仲間内での高原でのゴルフツアー、別宅のある信州の夏も楽しみました。
ふと立ち寄った水族館のクラゲに癒され、初めて行った居酒屋で美酒にも酔いしれました。
梅雨の晴れ間、神田明神を訪れた時はなにやら騒がしかったのですが・・・
思えば今ヒット中のドラマの撮影をしていたのかもしれません。
当たり前ですが、動かないと楽しいことにも出会えません。
会社員なら退職している年齢ですが、好きな仕事ができるのはありがたいこと。
秋から冬にかけても、この調子で実りあるものにしたいものです。

(5月5日更新)

“酒は百薬の長なんてことを申しますが・・・”。これは古典落語の名作「芝浜」の出だしです。
“酒は百薬の長”というのは、もともと中国の古書の一文から来ていますが・・・
これを長年信じてきました。もちろん飲みすぎは論外ですが、ほどほどならむしろ体に良いと。
しかし最近の研究では、酒は少量でも体に良くないという研究報告が多くなっているそうです。
と、いまさら言われてもね~。
タバコは禁煙ブームが始まる前に止めました。もう30年以上前のこと。
でもお酒は、止めようと思ったこともありません。私の数少ない嗜好品です。
酒が大っぴらに飲めないイスラム圏には、仕事でも行きたくないです。

以前このサイトを見たという知人から、
「過去写真、日本酒だらけですよね」と言われたことがあります。
確かに日本酒は好きですが、日本酒だけが好きなわけではありません。
私は料理に合わせて酒を選びます。(ほとんどの人がそうでしょうが・・・)
和食なら日本酒、洋食ならワイン、中華なら紹興酒、韓国料理ならマッコリ。
やはり、その料理の調味料として使われている酒と合わせるのが一番です。
ドイツ料理にはもちろんビールですが・・・同じビールでも・・・
タイ料理にはシンハー、アメリカのジャンクフードにはバドワイザーやミラー、
沖縄で飲むならオリオンビールと、その土地で生まれ支持されている銘柄は、
歴史が証明するベストマッチなのでしょう。
泡盛も好きですが、家で飲むより沖縄で飲むほうが何倍も美味しいと感じます。
そして食事時だけでは収まらず・・・焼酎やブランデー、ウイスキーといった
強めの酒にもついつい手が伸びてしまうのがイケないのですが・・・

良いことがあったといえば飲み、悪いことがあったといえば飲み、何もなくても飲む。
おかげで人生、睡眠薬の類とは一切縁がありません。
その私が、先週急な腹痛に見舞われ、およそ1週間寝込みました。
流石にその間は、酒を断ちました。正確にいうと、飲もうとも思えませんでした。
3年ほど前1か月ほど断酒して以来、久々にアルコールが抜けた状態になりました。
しかし、盃一杯の焼酎のお湯割りから始めて、すぐに元の酒量に戻りました。
美味しく飲むにも、元気でなければと改めて思い知った次第です。

この冬から春にかけ一番飲んだのは、
日本酒なら「幻舞」に「花邑」、にごり酒の「十水」。
焼酎は、ロックで飲むなら「だいやめ」。お湯割りなら「蔵の神」。
赤ワインは、ここ数年カルフォルニアのナパが断然多く、
白ワインはフランスのブルゴーニュがチョイスの一番になりました。
そして、ウイスキーは日本産。ジャパニーズウイスキーです。
ここ数年、異常ともいえる人気でプレミアム価格になっていますが、
私は定価でしか買ったことがありません。ほとんど抽選で手に入れています。
くじ運の悪い私が、何故かウイスキーの抽選だけはよく当たるのです。
酒の神・バッカスが、まだ飲んで良いよと当てさせてくれているのでしょう。
少しでも長く美味しくお酒を飲むためにも、健康には心がけたいと思います。


(2月21日更新)

今年も、静かな正月を過ごしました。
ここ数年はコロナ禍ということもありますが、
年の瀬になると同世代の知人たちが病に倒れたり、
亡くなったりという知らせが入るようになり、なんだかはしゃげなくなりました。
年末には、緩和病棟に入院している従姉を見舞いました。
私が赤ちゃんの頃に、負ぶってくれた優しいお姉さんです。
病院では手厚い看護を受けていましたが、
コロナで1日一人しか面会が許されず、とてももどかしい感じがしました。
家族が泊まり込みで看病できる設備は整っているのに、使うことも許されません。
当然感染のリスクなどはあるのでしょうが、家族もそれを承知なら、
もう少し規制を緩めてくれても良いと思うのですが・・・。
去年、福井テレビで制作した「別れの制限」もそんなテーマの番組でした。
コロナでなければ、もっと一緒の時間を過ごせたはずなのに・・・。
印象的だったのは、家族の見舞があると患者の生きる力がアップするということ。
そして少なくとも福井県では、
面会が原因でのクラスター(集団感染)の報告は1つもないということです。
それでも、日本の病院のほとんどはコロナが始まった頃の厳しい規制を、
頑なに変えていないのです。
5月には、コロナが感染症対策の2類から5類に引き下げられることになります。
病院での面会の状況も当然変わってくるはず。
そうなれば、家族はもとより患者さん本人が一番嬉しいと思うのです。

我が家のシンボルツリーは、20年以上「照手桃」でしたが、
大きくなりすぎて根がはり、擁壁に負担がかかることが分って伐採しました。
新たに植えたのは山茶花。山茶花の花言葉は「困難に打ち勝つ」です。
寄せ植えにした花が、真冬なのに美しく咲いています。
我が家には、1日20時間以上眠っている老犬がいます。
日に何度か起き上がり、排せつと少しの食事のあとは、またすぐ寝てしまいます。
でも、その寝顔を見ているだけで、なんだか安心する今日この頃です。


(10月30日更新)

10月、まだ紅葉前の京都に行ってきました。
GOTOトラベルも始まっていましたが、連休明けの静かな京都です。
今回は、まだ一度も足を延ばしたことがなかった大徳寺界隈に。
洛北随一の禅寺です。どこまでも整然と続く石畳を、のんびり散策しました。
数多い塔頭(たっちゅう)のなかには、秋の特別公開のところが数カ所あり、
それを目当てに行ったのですが・・・
なかには襖絵を見るだけで、拝観料とは別に数千円とるところがありました。
それも国宝の類ではなく、現代の人気画家の作品を見るだけで。
入るのは止めました。長い間美術番組の構成をしていたこともあり、
襖絵に取り組む画家を記録した作品にも、何度か携ったことがあります。
数年の歳月をかけ、後世に残る襖絵にしようと心血を注ぐ画家の姿には、
感動を覚えたこともありますが・・・
もちろん寺側も、掛けた費用を回収したいという思いもあるでしょう。
しかしそれは、拝観料に薄く広く時間をかけて加算すべきだと思います。
安くはない拝観料とは別に、美術館より高い料金はどうなのでしょう。

入ってよかったのは「龍源院」。
拝観料が安く、見るべきものが多い、本来あるべき姿だと思いました。
小さくても見事なバランスの石庭が院内に配され、美しい苔が生し、
迫力ある龍の襖絵をはじめ、ほとんどのものを惜しみなく公開しています。
ずっと居たくなるような場所でした。こちらは常時公開されています。

他に、秀吉が信長の菩提を弔うために創建した塔頭総見院の本堂には、
社会の教科書に載っていた「木造織田信長座像」がありました。
すると、それと全く同じ姿が描かれた絵を偶然見ることができたのです。
寺の所蔵品で、丁度美術館の学芸員が真贋の鑑定に来ていました。
居合わせた拝観者数名と一緒に、その巻物を脇から拝見できたのです。
これこそ特別拝観じゃないかと思った次第です。

知らなかったのですが、信長一族の立派なお墓もありました。
信長の墓はいろんなところにありますが、ここもそのひとつだそうです。
丁度、岐阜の信長まつりが凄いことになっているというニュースが流れ、
今年はどうやら、信長の年になりそうな予感がします。
近くには信長をまつる健勲神社もありますが、
立ち寄るには時間がありませんでした。

翌日は、何度か行ったことのある本能寺に。信長つながりです。
寺町を抜け三条通りを東山に向かって歩くと、
「光秀の首塚」という案内板も見つけました。これは偶然です。
近くの道端には「竜馬とお龍が内祝言をあげた」という石碑も。
だから、京都は飽きないのです。

海外からの旅行者の規制もゆるくなったとはいえ、まだ静かな京都。
それでも行きつけの店には、外国人の客が確実に増えていました。
十数席で一杯のカウンターだけの店。台湾のカップルが出ると、
次に予約を入れていたのはスペインから来た2人連れの女性でした。

国際都市京都が、いよいよ息を吹き返そうとしています。

(7月23日更新)

月初旬。安芸の宮島に行ってきました。言わずと知れた日本三景のひとつです
広島の局に20年以上通っていたのに初めてのことでした
広島駅から電車で30分フェリーに乗り換え10分ほど。
京都なら、嵐山に行く感覚でしょうか。
こんな近くにある日本の絶景初めて足を延ばしたわけです。
一番の見どころ厳島神社の大鳥居はもう3年保存工事が続けられていて、
作業用足場に覆われ見ることできませんでした。
どうやら来年開かれる広島サミットに間に合わせるようです。

聖なる山・弥山(みせん)へのロープウエーも止まっていて、観光客はまばら。
その分、半日をかけ厳島神社をはじめ島内をゆっくり散策しました。
遅い昼食は、地方局の仲間たち勧められた「Fでアナゴ飯。

アナゴの肝の珍味を肴に、昼間から酒を飲んで心地よい気分になりました。
瀬戸内海の島々がのどかで美しく、これぞ日本という情景の中に浸っていると、
すぐそばに原爆が投下され、多くの犠牲者が出たこと幻のように思えます。
あの日も、ここは変わりなく美しかったのでしょうね。

今年の原爆に放送する番組は『ヒロシマ 祈りの場の1年。
平和記念公園に祈りを捧げに来る人たちを、1年間追った番組です。
初めてのプレビューで、これはナレーションを入れないほうが良いと感じました。
名もなき人たちの、様々な祈りのかたち。
そんな人々のひたむきな思いが、
美しい日本の根幹を作ってきたような気がします
最近の日本を長く舵取りした宰相が殺害されたことは、
そんな日本の崩壊を暗示しているようでなりません。画像92

(5月5日更新)

およそ19年前、我が家に産まれたばかりの瀕死の子猫がやって来ました。
まだ眼も開いていない猫は、当時、高校生や中学生だった子供たちの介護もあり、
息を吹き返し家族になりました。名前はチャッピー。茶トラの雄猫です。
この子と出逢ったことで、その後2匹の猫と2匹の犬が同居するようになります。
動物を飼うなんて考えられなかった、我が家の価値観を変えた猫でした。

とにかく自由気ままでした。
若いころは家を抜け出し、何日も帰ってこないことが度々ありました。
遠くの家のベランダで、そこの家猫のように振る舞う姿を何度も見かけました。
飽きて帰ってくると、朝早く「起きろ!」と家族みんなに猫パンチをくらわす、
そんな猫でした。そばに居たがるくせに、抱かれることを嫌い。媚も売りません。
ペットというより、本人も家族だと思っていたのでしょう。
私たちも、それぞれチャッピーには救われました。
特に家内は、一時うつ病のような症状に陥った時期があったのですが、
家族の誰にもまして、その回復に貢献したのはチャッピーでした。
かくいう私も、嫌なことがあるとチャッピーの額に自分の額をくっつけて・・・
「お前、ほんと何も考えてないな・・・」というのが習慣になっていました。

そのチャッピーが、年明けから腰が抜けたように寝たきりになりました。
それでも食欲は旺盛で、歩きたがるため、家族は交代で世話をすることに。
それが4カ月近く続いたのです。最後の数週間は、誰かが添い寝していました。
我が家に瀕死で来た時のように、手間をかけるだけかけさせ、そして旅立ったのです。
人間で言うと、90歳を超える年齢でした。
自信を持って言えるのは、こんな幸せな猫はそうそういないだろうということです。
亡くなって、もうひと月経ちますが、ふらりと帰ってくるような気がしてなりません。画像91

(3月11日更新)

丁度40年前、私は土地を探していました。
いくつか候補を見て廻り、そして選んだのが今も住んでいる場所です。
決め手のひとつが、緑の多さでした。
10年くらい前まではオオタカやフクロウまで観察された、
横浜でも貴重な緑地帯のひとつだったのです。
しかも、その土地は右側がオーナー会社の社長宅。
左側は大地主の家でした。
その間に挟まれ、4メートルほどの擁壁で盛り土された小さな土地。
そこに初めて立った時、「ここだな」と思ったのです。
ゴルフ場のショートホールほどもある社長宅には、
見事なヒマラヤスギが並び、きれいに手入れされた庭が広がっていました。
大地主のほうは、その母屋までのあいだに竹林があり、
売り出されていた土地の狭さが全く気になりませんでした。
そこに小さな家を建てたわけです。
しかし、20年経った頃、社長の家は売りに出されました。
見事な庭木が切られた時は、ヒマラヤスギの悲鳴が聴こえた気がしました。
その跡地は、40軒ほどの建売住宅に替わりました。
左手の大地主のほうにも、15年ほど前アパートが建ちました。
ただ、家との間にあった山から続く竹林はそのままで、
最近まで野生の狸と目が合ったり、猫がのんびり昼寝をしていたり、
1年中いろんな鳥たちが遊びに来たりしたものです。
その竹林が、ついに消えました。
地主が駐車場を広くするために、そこを切り崩したのです。
一日でその竹林が消えた時、近ごろ頻繁に姿を見せていたキジバトが、
近くの屋根に留まったまま「どうして?」というように首をかしげていました。
巣作りでもする気だったのでしょう。
本当なら今頃、鶯が鳴いていました。
毎年すぐそばで感じられた春の訪れも、二度と聞けないのでしょうね。
40年前「ここだな」と思った場所。今なら、絶対に買いません。
…今回はつまらん愚痴です。すいません。
せめて、小さな庭に咲いた鉢植えの梅や艶やかなアネモネに癒されますか。
鶯、来ないかな。画像90


(1月24日更新)

年が変わりました。
自身の生活で去年大きく変わったものは・・・と考えた時、
そのひとつが食事だと思い至りました。
朝食をジュース一杯ですますことが多くなったのです。
材料はリンゴとバナナ、そして人参がメイン。
それに冷凍のベリー類とリンゴ酢を加えます。これが基本。
季節によっては、そこに生のイチゴやキューイーなどの果物を入れます。
さらに義母が送ってくれる小松菜、ホウレンソウ、ケール、トマトが入ることも。
間引いた人参がある時は、その葉っぱも投入します。
あとは、ジューサーのスイッチをONにすれば出来上がり。
これを、もう10カ月は続けています。

朝食がジュースに置き換わったことで、1日の食事の量が減りました。
そのまま昼を抜いて、夕食だけにする時もあります。
つまり三度三度の食事を止めたのです。
いま流行りのオートファジーではありませんが、
お腹いっぱいの時間を減らしています。
ま、夜に飲むお酒の量はあまり減っていないので、
どれほどの効果があるのかは分かりませんが、
減量した体重もリバウンドすることなく推移しています。
若いころに比べ確実に仕事量も運動量も減っていることですし、
しばらくは、これを続けてみようと思います。

みなさまも、健やかな1年でありますように。画像89


(11月22日更新)

2年ぶりに京都の秋を満喫してきました。
新型コロナが蔓延してから、初めての遠出です。

ま、新幹線に乗れば2時間で着くのですが・・・。しかも1泊2日の短い旅。
それでも久しぶりに、「生きてて、得した」と心から思えました。
平日の京都は、そしてコロナ後遺症の京都は、人出もそれほど多くなく、

修学旅行の団体コースさえ避ければ、理想的な秋の京都でした。
なんだか、10年ほど前に戻ったような気がしました。

その理由は、外国人旅行客が少ないせいです。
コロナ前、数年間の京都は、もはや日本ではないような時がありました。
特に、桜と紅葉の季節は。インバウンドを期待するのは分かりますが、
許容量を遥かにオーバーしていた感があったのです。
今回は、不思議な落ち着きがありました。ま、昔に戻っただけなのですが・・・。
海外でもコロナが下火になれば、また外国人観光客も徐々に増えるのでしょうが、
今の京都は、なんだか得した気分です。

1日目は、定宿に荷物を預けたあと嵐山に。
味も雰囲気も好みのうなぎ屋で、昼から軽く日本酒を飲んで、
久々にトロッコ電車に乗りました。当日券が余裕で買えたので。
保津川渓谷沿いの紅葉を楽しみながら、時々行違う保津川下りの船に手を振る。
ディズニーランドのアトラクションのようでもありますが、
こちらのほうが、自然に手が動きます。

京都の中心に戻って向かったのは、まだ一度も行ったことがなかった六波羅蜜寺。
京の歴史の主役の一人、平清盛ゆかりの寺です。
テレビ番組の金運向上で取り上げられたばかりで、少し混んでいましたが、
境内にあった痛みを取り除くという「なで牛」に触り、
金運向上の銭洗い弁天様にも、しっかりお参りしてきました。

夜は、毎年のように通っていた日本料理店に。
移転し雰囲気も随分変わっていましたが、料理は相変わらず美味しかったです。

2日目。市内中心部の紅葉はまだまだだったので、比叡山の麓へと。
叡山電鉄の一乗寺駅で下車し、詩仙堂、圓光寺に。
新幹線の中で目にした雑誌の紅葉特集で、圓光寺が一番印象に残ったので、
前日スマホで予約しておきました。丁度、見頃でした。

その後、祇園河原町に戻って、お土産の鯖寿司などを買い、平安神宮に。
お参りを済ませて、そのまま馴染みのフランス料理店へ。
女将さんとコロナ禍での四方山話をしながら、
美味しい料理に舌鼓を打つうちに、じんわりと幸せな気分になりました。
過ぎた時間は戻っては来ませんが、こうしたひと時が大切なのだと感じました。

「生きてて、得した。」
12月5日放送のザ・ノンフィクション『家族へ、最後のおくりもの。』
その中の出演者の言葉でもあります。
生きていると、良いこともあるのです。そのために、生きようじゃないですか。画像88


(9月24日更新)

断捨離続行中です。
本棚を整理していたら、2016年3月号の文藝春秋が出てきました。
その中に「88人の最後の言葉」という特集が掲載されています。
10代で命を絶った少年から百歳まで生きた作家まで、
遺書や遺言を集めたものです。


その雑誌を購入したのが、ちょうど私が60歳になった直後でした。
88人のなかに60歳で亡くなった人が二人いたので、

5年前にそのことを書きました。
ちなみに60歳で亡くなった方というのは、手塚治虫さんと色川武大さんです。
その雑誌を、65歳になった今再び目にしたのです。
片づけの手を止め、今度は65歳で亡くなった方を探してみました。

88人の中に4人いらっしゃいました。
池田勇人さん、武満徹さん、梨本勝さん、宮崎恭子さん。
職業はバラバラですが、それぞれユニークな生涯を送った方々です。
池田勇人(はやと)さんは、「所得倍増計画」を掲げ、
高度経済成長を推進した名宰相。資料映像でしか見たことがありません。
武満徹さんは天才作曲家。映画やテレビの音楽も広く担当されましたが、
武満さんに音楽を頼めるような番組を作ったことがありませんでした。
梨本さんは、「恐縮です」と言いながら芸能人に食い下がったレポーター。
テレビ局で何度かすれ違ったことはありますが、
一緒に仕事をしたことはありません。
宮崎恭子(やすこ)さんは、夫の仲代達矢さんとともに無名塾を主催、
脚本や演出を手掛けられました。お会いする機会はありませんでした。

こんな方々が、亡くなった年齢を私は生きていることになります。
他の84人を見ても、
今の私より早くに亡くなった方のほうが多いくらいです。
複雑な気持ちになりました。

「無名塾」というと、私が大学生の頃に設立され、
知り合いだった役者志望の連中は軒並み受験し、討死したものです。
20代前半、無名塾の塾生数人と飲む機会が何度かありました。
数百人の中から選りすぐられた人たち、やはりどこか輝くものがありました。
暫くは舞台や映画でも活躍する姿を見ていましたが、今はどうしているのか・・・。
長年役者として生き抜くには、容易ならざる運と実力が無ければならないのでしょう。
そんなことを考えていると、断捨離も進みません。 
片付けが一段落したら、好みの酒でも飲みますか。 画像87

(4月24日更新)

貧乏性で、なかなかモノを捨てられないタチなのですが、
いま、どんどん捨てています。いわゆる断捨離。
いつか見返すこともあるかと残しておいた、かつて創った番組のビデオやDVDも
ほとんど捨てました。本も、一時は物置まで一杯になっていたものを整理し、
今やメインの本棚までスカスカになりました。
先日、4年前に亡くなった猫のモモと3年前に亡くなった犬のチョコを、
土に返しました。遺骨をずっとリビングの一角に置いていたのですが、
一つの区切りにしました。
庭の一角に2つ並べて埋葬し、その上にシャクナゲの苗木を植えました。
来春には、きれいな花を咲かせてくれるでしょう。
我が家には、まだ1匹ずつ猫と犬がいます。老猫チャッピーと老犬マロンは、
1日の大半を眠り、起きている時はただひたすら食べております。
寿命より早く逝ったモモとチョコ。長生きしているチャッピーとマロン。
どこに違いがあるのか考えていたら・・・
モモとチョコは繊細でした。チャッピーとマロンはマイペースです。
ちょっと納得した次第です。
コロナの終息も見えぬのに、今年もバラが一斉に咲き始めました。
眩しいほど、綺麗です。画像86

(1月27日更新)

2枚の日の出の写真は、元旦に届いたものです。つまり今年の初日の出。
1枚は、仕事でスカイツリーに出かけた長男から。
1枚は、自宅近くの丘の上から見たものを長女が送ってくれました。
我が家は、家内の誕生日が12月31日ということもあって、
大晦日に家族で食事をすることが数少ない恒例行事のひとつです。
旅行や帰省していない時は、みんなでどこかの店へ行くのですが、
今年はコロナとあって自宅でささやかなパーティーを開きました。
初日の出の写真が届いた頃、私は夢のなか。
正午近くに起きて、出来合いのお節料理を肴にまた飲み始めました。
暮れに、ある事情があって酒を止めていたのですが、
その反動もあってか、三が日はただただ飲んでおりました。
「花邑」「幻舞」「磯自慢」それに友人が贈ってくれた「IWA 5」
どれも美味しかったです。
焼酎やワインも飲みましたが、やはり正月は日本酒ですね。

去年、コロナが本格的に蔓延し始めた春頃、
漠然とした閉塞感が嫌で2つ目標を立てました。
ひとつは、久しく切っていなかったゴルフでの100切り。
ひとつはダイエットです。
たぶん私の人生で、明確な目標を立てたのは初めてだと思います。
ほとんど無計画で生きてきたもので・・・。
ゴルフが上手な人にとって100という数字は、苦笑の対象でしょうが、
年に6~7回しか行かない、しかも練習はコースに出る数日前に
肩慣らしでしか行かない私にとっては、高い壁なのです。
丁度近所のゴルフ場が閉鎖することになり、
持っていたプリペードカードを使い切るためにも、集中的に練習場に通いました。
その甲斐あって、目標を立てて3回目の本番で「92」がでました。
夏の軽井沢で、個人記録「93」まで塗り替えることが出来たのです。

ダイエットのほうは、ただただ食事を減らすという単純なもの。
春には76キロあった体重が、暮れには70キロを一瞬切りました。
半年余りで5キロ以上減ったのは、初めてのことです。
おかげで、3カ月に1度高血圧の治療に通う病院の先生には、
血液検査の数値が格段と良くなったと褒められました。
世間がコロナコロナと騒がしいなか・・・今年は身内にも不幸がなく、
つつがなく1年が過ぎると思っていたのですが、年の瀬、
仕事仲間や知人の訃報が相次ぎました。みんな同じ60代。
早すぎます。
今年は、目標は立てないことに決めました。
ただ、1日1日を大切に生きて行ければと思います。画像85

(12月24日更新)

拙宅から一番近い駅は、横浜市営地下鉄の駅です。
1985年に開通したので、もう35年になりますか・・・。早いものです。
横浜の地下鉄計画は昭和40年代にはスタートしたようですが、
沿線の目玉のひとつが港北ニュータウンです。
今では横浜の副都心のひとつとして22万人が暮らす、
首都圏有数のベッドタウンになっています。
都市計画に沿って造られた街だけに、景観も洗練されています。
テレビドラマのロケにもよく使われたりもしています。
ただ私は、あまりに整然とし過ぎていて好きにはなれません。
ニュータウンの中核の駅「センター北」には、
隣接する商業施設に大観覧車がありますが、これも野暮ったい感じがします。
スマホで精一杯オシャレに撮ってみましたが・・・。
地下鉄で15分もあれば行ける街ですが、ほとんど降りたことはありません。
師走、久しぶりに下車しました。
駅から5分ほどのところにある横浜市歴史博物館に行くためです。
企画展である「俳優 緒形拳とその時代」を見るために。

緒形拳さん。戦後日本を代表する名優です。
特に私たちの年代にとっては、大スター。
物心ついた時には、出ている作品はすべて主役でした。
私がシナリオを勉強していたころには、
『鬼畜』や『復讐するは我にあり』、『楢山節考』など
日本映画の傑作の数々で見せた存在感は圧倒的でした。
テレビドラマ『必殺仕掛人』シリーズの藤枝梅安も忘れられません。

憧れの人と一緒に仕事をすることになったのは、2004年の10月のこと。
テレビ朝日の「素敵な宇宙船地球号」という、
エコをテーマにした30分のドキュメンタリー番組です。
すでに番組が開始して7年ほど経ち、内容をリニュアルすることになり、
私もこの時からスタッフとして加わりました。
リニュアルの目玉として、毎回バラバラだったナレーターを固定しました。
その一人が、緒形さんでした。ちなみにもう一人は、室井滋さんです。
忘れられないのは、緒形さんが担当したリニュアル1本目。初対面の時です。

当時私は、担当する番組はナレーション入れにも立ち会うようにしていました。
人気のタレントさんや、大御所といわれる俳優さん、誰もが憧れる女優さんなど、
いろんな方々に会う機会がありましたが、
緊張することは全くというほどありませんでした。
ただ、緒形さんの時は少なからず緊張しました。
私にとって特別な俳優さんだったからです。
しかし、思い描いていたイメージと実際の印象は大きく違いました。
もっと豪放磊落で、エネルギッシュな人だと思っていたのですが、
目の前に現れた緒形さんは物静かな優しい雰囲気の人でした。
ナレーションを録る前に、数人で雑談する時間がありました。
すると、いつの間にか一人抜け二人抜け・・・
気がつくと緒形さんと二人きりになっていたのです。

その時交わした短い会話を、私は一生忘れないでしょう。
「これ、あなたが書いたの?」
それは数日前に仕上げて、ディレクターに渡しておいたナレーション原稿でした。
「はい、そうです」
「・・・うまいね」
「・・・恐縮です」
二人だけの会話はそれだけです。
緒形さんは、その場で最後の下読みを始めました。
ナレーターから、面と向かって褒められたのは初めてでした。
それも、あの緒形拳さんにです。
作品名は「森の中に生きている橋 ~東北インド・雲の谷の贈り物~」
緒形さんのナレーションは、凛としたなかにも味があって見事でした。
その後、私が担当する時に月1本ほどのペースで読んでいただきました。
それは、緒形さんがお亡くなりになる前、
体調を崩して番組を降板するまで2年半ほど続くことになります。

後で知ることになったのですが、
初めてお会いした時、緒形さんはすでに肝臓がんに罹り、
その治療を隠しながら仕事をなさっていたのです。
「これ、あなたが書いたの?」「・・・うまいね」
私にとって、今も宝物のような言葉です。

横浜市歴史博物館の「緒形拳とその時代」展には、
師走の平日だというのに思いのほか大勢の人が来館していました。
同年輩か、年上の人がほとんどでしたが・・・
静かで、良い時間を過ごせました。画像84

(11月3日更新)

初秋、信州松本の四柱神社に参拝してきました。
子供たちの初宮参りや七五三にも通った、親しみのある神社です。
周りはすっかり観光化し、新しい素敵な店が立ち並んでいました。
以前、よそ行きの街になったと書いたことがありましたが、
よくよく考えると20年前30年前と違ってくるのは当たり前です。
参拝する私たちも、初老の夫婦と中年のおじさん、おばさんになったのですから。

信州といえば、そば。
ガイドブックにはいろいろ新しい人気店の名が載っていますが、
足が向いたのは『M』。
40年前、女鳥羽川沿いにあった小さな店で、
初めて食べた時の感動は忘れられません。
今では、松本城近くに大きな店を構えています。
昔は裏メニューだった「せいろと天ぷらそば」のセットが、
正式メニューになっていました。
懐かしさも加味されて、私のなかの点数はぐんと高くなります。

新しい店も見つけました。神社近くで昼飲みの出来る『F』。
「楽器正宗」「光栄菊」「新政NO6」この店で初めて飲みました。
酒の種類も豊富ですが、料理がまた美味い。
近所にあったら毎日のように通いたくなる店でした。

テレビの仕事をしていると、
「俳優やタレントさんと会えていいね」と言われることがあります。
ただ、私のように報道やノンフィクションの番組ばかり担当していると、
そんな機会は滅多にありません。
昔、テレビの製作費が湯水のようにあった時代、
大型の旅番組の壮行会や打ち上げに招かれ、
「旅人」である俳優さんたちと食事をしながら歓談したことはあります。
中には、日本を代表するようなスターの方々もいました。
ただ仕事上のことであり、ほとんどの場合、会話の内容まで記憶に残っていません。

そんななか、その時交わした言葉のトーンまで、
今でもはっきり覚えているいる人が何人かいます。
そのひとりが、三浦洋一さん。
1999年、テレビ朝日の40周年記念番組でチョモランマに旅してもらい、
その打ち上げの席でのことです。スタッフも少ないので、円形テーブルで隣りでした。
食事中、三浦さんが「最近、のどに食べたものがひっかかるんですよね」と言ったんです。
「それ、よくないですね。絶対!病院言ったほうがいいですよ。
何でもなければそれにこしたことないですし、問題があれば早く回復しますから・・・」
「そうですね。行ったほうが、いいですね」
そこから先の会話は、曖昧です。ただその直後に、食道癌だと分かったようです。
勿論、私が勧めたから病院へ行ったわけではないでしょう。
彼の身近な人は、みんなそう言ったに違いないのです。
その後テレビで見かける姿が、あまりに痩せていたので気になっていましたが、
食事会からちょうど1年が経つ頃、訃報を知りました。

私だけが知る、三浦さんの逸話をひとつ。
当時私は、大型の単発旅番組の仕事が多かったのですが、
その際、旅をする人にお願いしていたことがあります。
「簡単でいいので、日記をつけていただけませんか・・・」というものです。
番組を仕上げる際の構成やナレーションを書く時に、
少しでも反映できたらと考えてのことです。
しかし、それを実行してくれる人はほとんどいませんでした。
よくて、最初の数日だけ・・・。

そのなか、三浦さんから頂いた日記は見事と言うしかありませんでした。
その日の工程や食べたもの、そして感想まで・・・
辛いはずの世界一の山への登山のなかで、
2カ月近くに及ぶ間、丁寧に書かれていました。
リーゼントでワイルドなイメージの強い三浦さんの、
全く別の一面を見た気がしたものです。享年46。
私より2つ年上なので、生きていたら66歳に。
きっと、渋い俳優になっていたでしょうね。

まだまだ、個人的に忘れられない人たちがいます。
今後少しずつ、書いていければと思います。画像83

(10月8日更新)

コロナが蔓延してから、個人的にも良いことがありません。
好きな旅行にも行けず、5月には毎年恒例の地方局の仕事も、取材ができなくなり
1本が中止になりました。もう1本も、映像のやり取りだけになりました。
それが、鹿児島テレビの『テレビで会えない芸人』。本当なら故郷である鹿児島の局なので、
打ち合わせに行ったついでに先祖の墓参りもと考えたのですが・・・
当時、鹿児島はコロナ患者が一人も出ておらず、万一を考えて断念しました。
今回は、編集のサジェスチョンということで構成協力に。ナレーションも一切ない作品です。
その作品が、地方予選を勝ち抜き、民放連の全国大会へ進み、
今年のテレビエンターテインメント部門の最優秀賞を受賞しました。嬉しい限りです。
コロナ下の閉塞感のなか、数少ない私的な慶事になりました。

それにしても、去年は福井テレビが作った『聖職のゆくえ』が報道部門の最優秀でした。
2年連続の快挙です。
誰も褒めてくれないので、(勿論番組の関係者からは、丁寧なお礼はいただきましたが・・・)
自分だけで、ちょっといいワインを開けました。
相当数、地方局の仕事をやっていると思われるかもしれませんが、去年は2本、今年は1本です。
そのうちの2本が、部門は違うとはいえそれぞれ最優秀を獲得しました。高確率です。
実際のところは、タッグを組んだ地方局スタッフの質の高さが受賞につながっているのであって、
私はその手伝いをしているにすぎませんが・・・。

去年やった、もう1本はテレビ新広島の『原爆ドーム その名に遺されたもの』。
これも、地方大会(中国・四国)で最優秀こそ逃しましたが優秀賞を獲得。
ギャラクシー賞でも最終選考まで残ったと聞いています。
世界へのアピールを考えると、先の2本に負けない出来だと思います。
現在、テレビ新広島が世界に向け発信中なのでご覧になれます。時間があれば、ぜひ。

去年の春まで、BSフジで放送していたドキュメンタリー番組で、
2年ほどナレーションを担当していただいたのが竹内結子さんです。
熊本の震災復興を扱った回もありました。
竹内さんが熊本にずっと寄付を続けられていたことを、亡くなられたあとに知りました。
心より哀悼の意を表します。

我が家のGoToは、運気向上のため神社仏閣へ。
調布の深大寺と今年春にも行った熱海の来宮神社へ。
深大寺は蕎麦、来宮神社の帰りは箱根に立ち寄って「友栄」の鰻を食べてきました。
良いことが沢山ある、秋から冬、そして春が来ますように。画像82

(8月30日更新)

長梅雨が明けたら、猛暑続き。高校野球もなく、旅も行けず、マスクも息苦しく、
なんだか不完全燃焼の今年の夏です。
外食もひかえていましたが、少しずつその機会を増やしています。
最初に食べたくなったのは「うなぎ」。今年は土用の丑の日が二度有りましたね。
なぜか稚魚は豊漁のようですが、値段が安くなっている気配はありません。
次に「すし」。一時はカウンターにビニールがぶら下げられていましたが、
どうもあれは風情がありません。
その次に「そば」。こう並べていくと、典型的な日本食ばかり。
しかも家では上手く作れないものです。つまり職人の技が必要なもの。
あとは、近所の行きつけの焼肉に、インドの人が作るカレー、韓国の人が作る
サムギョプサルに、台湾の人が作る小籠包・・・これもまた、家では出せない味です。
最近は冷凍食品なども質が高くなり、お取り寄せも盛んですが・・・
やはり、店に足を運んで食べたいもの。確実に、何かが違います。
身近な人生の豊かさとは、そうしたチョットしたことなのかもしれません。画像81

(6月13日更新)

「花はいいよな~」やはり、志村けんさんのような口調でつぶやいてしまいます。
人間の騒ぎをよそに、花はいつものように咲き、知らぬ間に散り・・・
静謐(せいひつ)に生涯を全うしていきます。
バラがきれいな季節です。我が家のバラは、いつもの年より貧弱ですが・・・。
道端の花壇のマリーゴールドが鮮やかです。そして、いつの間にか紫陽花も・・・。
花の移ろいを見るだけでも季節を感じられる。ニッポンは素晴らしい国です。

新型コロナによって、日本人の死生観にも変化が出てきているようです。
私が生まれた1950年代は、8割ほどが自宅で死を迎えていました。
つまり多くの人が家族に囲まれて、亡くなっていたのです。
最近は8割近くの人が病院で死を迎えます。
その数字は先進国の中でも突出しているそうです。
ちなみアメリカは35%。イギリスは50%。
現在、自宅で亡くなる日本人はⅠ3%ほどに過ぎません。

一方で過半数の人が、住みなれた我が家で最期を迎えたいと答えています。
それに伴い、看取りを専門とする在宅治療専門の診療所が増えてきました。
新型コロナの蔓延で、病院では満足に見舞いに行けないこともあり、
終末医療を自宅に切り替える人が、急増しているそうです。

通常亡くなった人は、24時間は火葬が認められていません。
万が一にも生き返るかもしれないからです。
しかし、コロナウイルスに罹って亡くなった人は、
伝染病指定のため、その日のうちに火葬されます。
感染の恐れがあるため、隔離されて治療を受け、
自宅に戻ってくる時は遺骨になっている。
残された者は、たまったものではありません。

これだけ、便利なものが開発される時代。
完全密封したうえで、せめて肉親だけでも、
火葬を静かに見守れる工夫が出来ないものでしょうか。
残された者の精神的ケアにもなると思うのですが・・・。

今のところ、日本人には何故か被害が少ない新型コロナですが、
たった一人、家族に看取られることなく死ななくてはならない。
本当の恐怖は、そんなことに有るのかもしれません。画像80

(4月25日更新)

「花はいいよな~」思わず志村けんさんのような口調でつぶやいてしまいます。
コロナ騒ぎをよそに、いつの間にか我が家の小さな庭も春の花で一杯です。
まだ椿が頑張って咲いています。ボタンも咲き始めました。つつじも見ごろです。
つつじは庭のものより近くの公園のつつじのほうが素晴らしいので、
写真はそちらを。今年は桜も楽しめませんでした。一番じっくり愛でたのは
テレビ局があるビルに飾られたオブジェだったかもしれません。

緊急事態宣言が出る前に、日帰りで福井に行ってきました。仕事です。
その往復の特急や新幹線の空きようは異様でした。1車輌に数人。
帰りの特急「しらさぎ」は、1車輌に私の他に1組。
米原で乗り換えた「ひかり」は、1車輌に私一人だけでした。
ここまで少ないと、なんだか怖いほどです。
黄泉の国へと続く列車のようでした。

予定していた仕事も、いくつかキャンセルになり暇が出来ました。
こんな時は、取材をかねた旅行に行くのですが・・・。
ほとんど見ていなかった、ユーチューブを見る機会が増えました。
これまでは眠り薬の代わりに、落語や講談、音楽を聞く程度でしたが・・・
面白いのが沢山ありますね。再放送ばかりのテレビはますます危ない。

コロナはいつ終息するのでしょうか・・・。
コロナは、日々の生活を変えただけでなく、
終息後も人々の生活を大きく変えるはずです。
コロナ以前と以降。時代の大きな転換点です。
番組の取材を通して、その激動の節目に立ち会うことが、
テレビを生業にしてきた身として、最後の仕事になりそうな気がしてます。画像79

(3月10日更新)

3月、石垣島に行く予定でしたが、例の騒動で泣く泣くキャンセルしました。
恒例の春の京都行きも暗雲が立ち込めています。
目に見えないウイルスに世界中が翻弄されています。

もっとシビアに言うと、人類が脅かされているわけです。
人間が地球の覇者でいられる時間も、そう長くはないのかもしれません。
石垣行きにスケジュールを開けていたため、急にヒマになりました。
そこで、替わりに神社にお参りをと思いたちました。

方角的に南西が良いようなので、熱海の『来宮神社』を目指しました。
『熱海』と言っても、拙宅からなら新幹線を使うと30分。
歩いて来宮神社まで15分。1時間かからずに鳥居をくぐりました。
私の星廻り九紫火星は、今年2大凶方位のひとつ『暗剣殺』。
そこで『星祭り』という厄払いをお願いしました。
ついでに、人類の安寧も・・・。

来宮神社に来たのは10年ぶりくらいでしたが、
社務所が新築され、とてもお洒落になっていました。
ここのシンボルは、樹齢2千年という楠木の大木。
本州最大の楠木は、パワースポットとしても有名です。
ただ以前は、周りが土の道で直接木肌に触れることもできましたが、
今は遊歩道のように整備され、原始のパワーが削がれた気がしました。
人の手が加われば加わるほど、
本来有る自然のエネルギーは希薄になるような気がしてなりません。

丁度、境内に猿回しの見世物が出ていたので、その伝統芸に感動し、
参道近くで清めの酒をいただき、名物の干物定食に舌鼓を打ちました。
日本屈指の温泉地『熱海』。
観光客はそれなりにいましたが、いつもより断然少ないようです。
思いきって遊びに来た人たちは、混雑もなく快適なようでした。
私は熱海滞在2時間。往復の移動を入れても4時間で自宅に。
どうせなら石垣島に行けばよかったと、今さらながら思った次第です。画像78

(1月25日更新)

雪のない正月は、なんだかものたりません。
南国生まれで、長い間雪景色とは縁がありませんでした。
信州出身の妻の実家に帰省するようになり、雪の風情を知りました。
雪のなかの初詣。寒いですが、悪くありません。このところご無沙汰ですが・・・
ニッポンの原風景のひとつのような気がします。

そんなことを思いながら、今年は自宅で元日から仕事をしておりました。
『山本さん頑張れ!もうすぐそこだ!』大間のマグロ漁師のナレーションです。
今年も、高視聴率をとることが出来ました。三が日返上の甲斐がありました。
むしろ第2週目からは時間に余裕ができ、好みの酒に酔いしれました。
『信州亀齢』と『川中島 幻舞』。共に信州の酒、女性が杜氏のお酒です。
全国的にも高い評価を得ているだけのことは有り、後を引きます。

先日、打ち合わせで福井へ。雪が見られるかなと思ったのですが・・・
新幹線からは、見事な富士山が拝めました。
米原で乗り換えるころには、雨模様。これはと思ったのですが・・・
着いた福井は大降りの雨。今年は全く雪が降っていないとのことでした。
そういえば、スキー場はどこも雪不足。廃業を決めた名門スキー場も。

雪には出会えませんでしたが、見事な越前ガニには会えました。
活きたカニを見せてくれて、その後茹でてくれます。美味しかったです。
『福井のカニは、金沢のカニより美味です』奢ってくれた方の弁です。
また、福井は日本酒が良い。『黒龍』『梵』他にも美味しい酒が・・・。

越前ガニ、土産にとも思ったのですが、値のはるオスには手も出せず、
12月一杯が漁期で、冷凍保存されていたメスの「せいこガニ」にしました。
自宅に帰って、それを肴に日本酒を・・・。結局、ずっと飲んでいたということです。
今年はどんな年になるのでしょうか。もうすぐ、またひとつ歳を重ねます。画像77

(12月17日更新)

9月、京都の嵐電で不思議な電車に乗りあわせました。
電車の外装や車内も、千手観音一色だったのです。
世界遺産『仁和寺』の観音堂特別内拝の告知車輌でした。

その時は時間が無く諦めるしかなかったのでしたが、
公開最終日の12月8日になんとか見ることが出来ました。
しかも、閉門時間の1時間前にすべりこみました。    

特別公開の観音堂は、928年頃に造営されたと伝えられており、
その後幾度も火災で焼失したようです。
現在の建物は江戸初期(1640年頃)に再建されたもので、
それを半解体修理し、6年かけ今年完成したのです。

もともと観音堂は『仁和寺』の僧侶が修行する場。本来は非公開です。
373年ぶりに甦った観音堂。説明してくれた僧侶の話に嘘が無ければ、
公開は今回限り。
次にあるとすれば、300年以上後だと言っていました。

そう言われると、ありがたさも増します。
本尊・千手観音菩薩立像を中心に、
従属として二十八部衆立像など33体もの仏像が並ぶ様は圧巻でした。
修行僧しか見ることのできない観音障壁画も目に焼き付けました。
壁画に描かれた菩薩様のなかで、一際腕の長いお方がいらっしゃいます。
これは、地獄へ落ちていく人々をすくい取るため。
修行僧の間では、今やワンピースと呼ばれているそうです。
当然、内部は撮影禁止。載せた写真はパンフレットを接写したものです。
また境内には紅葉が残り、今年も古都の燃えるような秋を楽しめました。

翌日は、京都で一番遅くまで紅葉が見られるという糺の森、下賀茂神社へ。
昔、本厄の時に厄払いしてもらった、私にとっては特別な神社です。
今年は珍しく、平穏に1年が過ぎていくのかと思っていたら・・・
年の瀬、大変世話になった伯母が亡くなりました。
令和最初の年末年始は、静かに過ごそうと思っています。画像76

(11月12日更新)

10月下旬、去年と同じ時期に沖縄へ行ってきました。
この季節は台風のリスクが減り、それでいてギリギリ泳ぐいこともでき、
沖縄を旅するには最適なシーズンのように思えます。
去年、8年ぶりに訪れ、ふたたび魅了され、また行きたくなったのです。
10年ぶりに「美ら海水族館」に足を運んだ以外、観光地には立ち寄らず、
個人的に気になる窯場やビーチを巡り、目に付いた食堂やカフェで、
沖縄のソウルフードを食べるという気ままな旅です。
ルートも、なるべく通ったことのない道を選んでドライブしました。

途中、人生で初めての体験を。それは乗馬。
人馬一体となって草原を駆け回る・・・とは、いきません。
案内人に先導され、食いしん坊の馬に時おり道草を強いられながら、
2つのビーチを1時間かけてのんびりと巡りました。おススメです。
馬のかわいさも実感できました。好物の馬刺し、今後食べられないかも・・・。

気付いたのは、「美ら海」以外観光客がめっきり少なかったこと。
国際通りやテーマパークなどの観光地に立ち寄らなかったこともありますが、
去年と比べあきらかに空いていました。飛行機は満員だったのですが。
京都同様、韓国からの観光客の減少が、原因でしょうか?
去年と同じホテルに連泊しましたが、そこも空いていました。
相変わらず、中国語は耳に飛び込んできましたが・・・。

そのホテルで気になったことが・・・放送されているテレビ番組の内容です。
外国人宿泊用に、英語や中国語のチャンネルがあります。
その中国語チャンネルのひとつで、連続ドラマをやっていました。
途中から見て、途中で見るのを止めたので、番組名は分かりませんが・・・
中国の解放軍の女性兵士が主役だと思われます。
目に飛び込んできたのは、主人公が日本軍から取り調べを受ける場面。
字幕スーパー付きなので、私にも理解できました。
日本軍の司令官は、「我々は、731部隊だよ」と不気味に笑います。
731部隊は、満州で生物兵器の実験開発を担っていたとされる部隊。
日本兵同士が、その主人公を手籠めにするか人体実験に使うか
話し合うシーンもありました。私はそこでチャンネルをかえました。

こんな番組を、日本のリゾートホテルで流す感覚が全く分かりません。
毎朝、ダイニングルームでは、宿泊者同士が食事しているのです。
私も嫌な気持ちですが、日本に遊びにやって来た中国の人たちも、
複雑な気持ちになるのではと思ってしまいます。

要は、契約している中国のチャンネルを、内容のチェックをしないまま
ただ流しているだけなのでしょうが・・・。
ホテルに、本当の気遣いや配慮ができる人はいないのでしょうか?
そのホテル「極上のもてなし」がウリなのですが・・・底が知れます。

嫌なことも有りましたが、沖縄そのものは実に魅力的です。
美しい海と空、南国の大自然に触れ、独特の琉球文化に浸り、癒され、
旅の余韻を引きずって帰宅しました。
しかし、翌朝テレビから飛び込んできたのは首里城が炎上する姿でした。
琉球の象徴であり、沖縄の人たちの心のよりどころでもある首里城の悲劇。
沖縄の人たちの喪失感には比べようもないですが、強い衝撃を受けています。
沖縄から、目が離せません。 画像75

(9月21日更新)

9月の連休、ぶらり京都へ。夏休みと紅葉の季節のはざまです。
韓国からの観光客が激減したこともあってか、いつになくすいていました。
1日目は嵯峨野へ。桜の季節は改築中のため店を閉めていた、好きな鰻屋へ。
白焼きに鯉の洗いで一杯。

午後は、嵐山の穴場、鹿王院へ。
京都でも数少ない「応仁の乱」で焼け残った名刹です。
ここが良いのは、本来ガラスケースに入っているような貴重な品が、
直に見られること。釈迦の歯・仏牙舎利を収めた舎利殿や仏涅槃図が、
まさに手に取るように見られる醍醐味です。
紅葉の頃が一番ですが、いつもすいていて、今回もほとんど貸し切りでした。
日本最古の平庭式枯山水を見ながら、濡れ縁で昼寝も出来そうです。
外人さんが長い間座禅を組んでいました。あれは寝てたな。
夜は、これまた春には閉まっていた贔屓の仏蘭西料理屋でワインを・・・。

2日目は、毎回一か所は行くと決めている初めての場所へ。今回は泉涌寺。
紅葉の名所・東福寺まではよく行くのですが、
その近くにありながら足を延ばせないまま行きそびれていた場所です。
さすが「御寺」と呼ばれる皇室の菩提寺。どっしりとした、格調高い寺でした。
丁度現代芸術とのコラボ展示もあり、不思議な空間を目にしました。
昼は和食。いつもの店が貸し切りだったため、祇園の初めての店へ。
名物の松茸と鱧の土瓶蒸しで、当然一杯。ほろ酔いで古都を散策すると、
数百年の幻想のなかにタイムスリップしていくようで、壮大な気分に浸れます。

夜は新幹線の最終まで河原町の大好きな焼肉屋に居座り、
満腹で帰ってきました。これが、今年の夏休みです。 画像74

(8月27日更新)


5年ぶりに広島に行きました。20年ほど毎年通っていた町です。
まず広島駅がきれいになっていて、驚きました。
1年ほど前に完成したと、タクシーの運転手さんが教えてくれました。
駅周辺にも高層ビルが建ち、5年という月日の長さを実感しました。

5年ぶりの原爆特番の仕事。今回のテーマは『原爆ドーム』です。
実は『原爆ドーム』という名前、誰が名付け、いつから使われだしたのか、
不思議なことに分かっていないのです。
1968年(昭和43年)に発行された資料に『不明』とあり、
その後、本気で調べようと思った人がいなかったようです。
そこで、番組で調べました。
すると、歴史のなかに隠された様々な真相が浮かびあがってきたのです。

爆心地近くにありながら、なぜこの建物だけが倒壊を免れたのか?
崩壊するのを待つだけだったドームに、「使命」を与えた人物とは?
14万人の一般市民を焼き尽くした、1発の原子爆弾。
「平和公園」「平和祈念資料館」「平和の灯」「平和の鐘」・・・
「平和」と付くものが溢れるなかで、「原爆」の名をまとった「ドーム」の存在。
そこには、愛する人や家族、知人など・・・大切なものを奪い取られた、
広島市民の想いが託されていたのです。

「E=MCの2乗」という、関係式を抱えた女生徒の碑があります。
亡くなった666人の広島第一高等女子高生の無念。
私を含め、多くの日本人がヒロシマの本当の悲しみを知りません。
「資料館」が、今年4月展示内容を一新しました。機会があれば、ぜひ。画像73

(6月27日更新)


5月の連休明けに、飛騨高山に行く機会がありました。
30年ぶりくらいだったでしょうか。
小京都の佇まいは記憶のままでしたが、世界遺産・白川郷に近いせいか、
昔は全く見なかった外国人旅行客が多いのには驚かされました。
泊まったビジネスホテルのロビーには、
いろんな言語の観光パンフレットが用意されていました。
いまやインバウンド対応は、日本中で必須なのですね。
高山は小さな町ですが、少し散策するだけで次々と造り酒屋に遭遇します。
7つ酒蔵があるそうですが、そのうち6つの前を通り、試飲もしました。
同じように試飲の列に並んだ観光客の大半が、欧米人や中国人で
なんだか不思議な気分になりました。
夜は地元の人が連れて行ってくれた居酒屋で、
飛騨牛の朴葉味噌焼きを堪能しました。思い出が一瞬で甦ってきました。
それにしても近年の日本酒は、どれもこれも質が高く、美味しいですね。
以前なら、「八海山」だったり「磯自慢」や「一四代」に「飛露喜」だったり、
これと決めた銘柄にこだわった時期もありましたが・・・
最近は、むしろ未知の酒を積極的に注文するようにしています。
どれもこれも旨くて、ついつい飲みすぎてしまいます。
旨い酒が庶民的な居酒屋や大衆割烹の店にあると、
それだけで嬉しくなってしまいます。どれも甲乙つけがたいのですが・・・
最近飲んだなかでは、「信州亀齢」が好みです。画像72

(5月22日更新)


3月から5月にかけ、何度か北陸の福井に通っていました。福井テレビの仕事です。
今年も美味しい越前そばが食べられて、幸せでした。
ぎりぎりカニの季節にも間に合い、幸せでした。
銘酒「黒龍」と「梵」の最強セットを駅の売店で見つけ、列車のなかも幸せでした。

ところで、あなたは『給特法』という法律をご存知でしょうか?
公立の学校の先生には、その働き方の特殊性から残業代を出さない替わりに、
基本給の4%を「教員調整額」という名目で支給するという法律です。
実は、当の先生方すら知らない人が多いのです。

「教員調整額」をもらっているので、残業代は出ません。
4%というのは、月8時間の時間外労働に匹敵する数字だそうです。
つまり学校の先生は、月8時間の時間外労働以上は、
いわゆるサービス残業になるわけです。
公的な調査では、先生の6割近くが過労死ラインと言われる
月80時間以上の残業をしていることが分かっています。
今回取材させていただいた学校にも、月100時間以上という先生が・・・。

しかし多くの先生には、「時間外労働」という考えさえないようなのです。
「先生だから・・・」「子供たちのために・・・」、実にけなげな考えなのです。
その一方で、2000年代に入り教師の精神病(多くがうつ病)が急増。
働き盛りでの過労死や大病による休職や辞職も増えています。
学級崩壊やモンスターペアレントなど、20年30前からあった問題に加え、
今年1月に起こった・・・教師を挑発して、殴られた動画を拡散するといった
昔なら想像すらできなかった落とし穴さえあります。

学校がブラック職場であることが知られるようになったのか、
公務員の人気は高いのに、教員志望者は減っています。
かつては競争率20倍近い時もありましたが・・・
今年は最低の県で、1,2倍にまで落ち込んでいるそうです。  

実は問題の「給特法」、1971年、48年も前に制定された法律。
半世紀前の遺物が、先生の献身的な労働を「ただ働き」にしてきたのです。
なぜ、そんな法律が制定されたのか?
なぜ50年近くも変えられなかったのか? そんな謎に番組は迫ります。
ナレーションは菅田将暉さんが引き受けてくれました。

実は私も40年以上前、教員試験を受けました。
母校の中学校に教育実習に行き、
「やりがいのある仕事かも・・・」と思ったのですが・・・。
見事に落ちました。画像71

(4月更新)

桜の季節が今年も巡り来ました。
今年初めて見た桜は、京都烏丸御池の交差点のすぐ近く。
東京に開花宣言が出る3日前のこと。
日当りが良いのか、そこだけ咲いていました。
その日の朝、大好きだった叔父が亡くなったという知らせが・・・。
私より一回りほど上で、一番年の近い叔父でした。
戦中に生まれ、中学卒業と同時に鹿児島から大阪へ。
いわゆる金の卵です。私の記憶に間違いがなければ・・・
最初に就職した、日用品を扱う商店一筋に勤めあげたはず。
昔でいう番頭として商店の屋台骨を支え、
先代が亡くなるときには、息子を一人前にして欲しいと託され、
準備していた自分の店をあきらめて義理を果たしました。
まるで、花登こばこさんのドラマのような話です。

私は小学生の頃、大阪に住んでいたことがあり、
当時は日曜日の度に遊んでもらいました。
吉本新喜劇や植木等の映画、デパートの屋上の遊園地。
その頃、叔父は二十歳前後。
小学生と遊んで、面白いはずもなかったと思うのですが・・・。
本当にやさしい人でした。
私のなかでは、やさしさの最上級の人でした。

それは、他人に対しても同様だったようです。
通夜の席で漏れ聞こえる話で確信しました。

2年前、同じ大阪で亡くなった叔父は、とても明るい人でした。
勤めていた会社が潰れるなど、苦労が人一倍多い人でしたが、
いつも明るく笑っていました。傍にいるだけで楽しくなる人でした。
一緒にいるだけで幸せな気分になりました。
二人の叔父に共通していたのは、
周りの人に嫌な思いを一切させない気配りでした。
そこには、ただやさしいだけではない、ただ明るいだけではない、
信念のような辛抱強さがあった気がします。

二人とも、根っからの大阪人のような人でした。
ふる里の鹿児島よりはるかに長い、半世紀を大阪で暮らしました。
大阪という街が、二人には合っていたのかもしれません。

我が家の庭には、ツバキやカイドウ、テルテモモ、そしてシャクヤクまで
一気に花開いています。そして、いつの間にか桜は散りかけています。
仕事の途中、乃木坂神社のしだれ桜がみごとでした。
六本木から赤坂に抜ける東京ミッドタウンの桜も・・・。
街に咲く桜もいいものですが、今年の桜は楽しめません。画像70

(2月24日更新)

私の数少ない趣味のひとつが、神社仏閣巡りです。
御朱印帳片手に、日本中かたっぱしから廻る・・・という元気はありません。
ただ、どうせ行くなら吉方にある神社に参りたいと思い、
出かける日付と方角は考慮します。その良い方角は、当然、毎年変わります。
簡単にいうなら、恵方巻を向けて食べる方角が、毎年違うのと同じ理屈です。

今年、我が家にとっては南の方角が「吉」だったので、そちらを目指すことに。
ただ我が家から南は、すぐに横浜港、東京湾、つまりは海になり、
一番行ける神社が限られる方角なのです。
向かったのは、横浜港近くの伊勢山皇大神宮(いせやまこうたいじんぐう)。
横浜の総鎮守。守り神様です。
車で行きましたが、電車ならJRの桜木町から徒歩圏です。

我が家のひと月以上遅い初詣にもなりました。
今回は4人で参拝しましたが、私以外は全員厄年だったので、
お賽銭だけでなく、お祓いをしてもらいました。
神主に「大麻(おおぬさ)*和紙がいっぱい付いた道具」で祓ってもらうと
不思議なもので、清々しい気持ちになるものです。

こうして、1年に1度か2度のことですが、吉方に参拝に出かけます。
この30年ほどで、関東の主な神社には大抵足を運びました。
方角を気にすると、気分で場所を決めるわけにもいかず、
伊勢山皇大神宮も6年ぶりくらいだったでしょうか。
縛りがあると、面倒といえば面倒ですが、慣れるとこれも楽しくなります。
むしろ制約があることで、選択の範囲が絞られ選びやすいともいえます。

帰りに「みなとみらい21」で食事をしました。
自宅から車なら20分とかからないところなのですが、
もう3、4年は立ち寄っていませんでした。
それも今回、この方角が「吉」だったからこそ。
これまでにも、方角で決めた神社にお参りに出かけたことで、
全く縁のなかった町や人との出逢もありました。
次は、いつにしますかね。

それと、10年以上押入れに仕舞いっぱなしにしていた御雛様を、
今年は早々に飾りました。すみませんね、ずっと放っておいて・・・。
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(1月15日更新)

明けましておめでとうございます。
今年の年越しは、家内の実家・信州松本で過ごしました。
一昨年の暮れに亡くなった義父を偲び、いつになく静かな正月を送りました。
紅白歌合戦を、ちゃんと見たのも十数年ぶりでした。
年越しそばを食べ、雑煮を食べ、おせちを肴に、日本酒やワインを。
箱根駅伝も見ました。時々、うたた寝しながら。典型的な寝正月でもあったわけです。

最近のお気に入りは、1日の終わりにヒレ酒。
行きつけの料理屋さんがくれたフグヒレを熱燗に浸し、
ちょっとした肴を用意して、ちびちびやります。
静かすぎる1年のスタート。駅伝のようなドラマが、今年も起きるのでしょうか。
みなさんにとって、幸せ多き1年でありますように。(1月15日更新)
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(12月8日更新)

11月中旬、例年より1週間ほど早く京都へ行ってきました。
今年は暖冬で京都の紅葉も遅れ、市内はまだ色づき始めたばかりでした。
そこで、少し北に上がった「大原」へ。5~6年ぶりだったでしょうか。

バスで向かう途中、夏の台風で倒れた木々が目立ちましたが、
三千院周辺は、既に倒木も整備されたのか真っ盛りの紅葉を楽しめました。

2日目は洛北を目指しました。印象的だったのは圓光寺。
門前は通ったことがありましたが、立ち寄るのは初めてでした。
紅葉はもとより、竹林や白砂の庭も独創的で素敵な禅寺でした。
なにげなく裏山に登ると、途中に鳥居があり、徳川家康公の墓がありました。
歯が埋葬されているとかで、日本各地に点在する東照宮のひとつでした。
周辺には、宮本武蔵が剣の悟りを開いた地や吉岡一門との決闘の場もあり、
歴史好きにはたまらない地域でもあります。


紅葉の名所・曼殊院門跡までは、さらに20分以上歩かなくてはならず、
諦めて、ここも何度か素通りしていた鷺森神社に向かいました。
人っ子ひとりいない境内で見つけたのは、縁結びの石「八重垣。」
参道の紅葉を楽しんだついでに、縁遠い末娘のために良縁を祈ってきました。

京都に行くといつも思うのは、見るべきものがたくさんあるということです。
清水寺や金閣寺、嵐山など誰もが知る有名観光地も行くべきですが、
同じところに2度3度と行くより、初めての場所へ行くことをお勧めします。
今回も紅葉シーズンの休日でしたが、有名観光地は大変な混雑だったと思います。
でもほんの少し離れるだけで、ほとんど観光客がいないか、
時にひとりじめのような京都と出逢えます。
そこには思わぬ発見があったりするものです。ちょっと得した気分を味わえますよ。

先日、まだ買い替えて1年ちょっとのスマホが急に壊れてしまいました。
充電中に突然死のように、うんともすんとも言わなくなってしまったのです。
パソコンのメールで、仕事の連絡などは支障なかったのですが・・・
スマホを持たないで過ごした数日間は、妙な不安と背中合わせでした。
知らず知らずのうちに、私もスマホに依存した生活を送っていたということでしょうか・・・
なんだか情けないような・・・再びスマホを手にした時、不思議な気持ちになりました。
還暦も過ぎたのなら、もっと自由に生きたいものです。

身内や友人や愛犬も亡くなった今年。年越しは静かに過ごそうと思っています。

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(10月31日更新)

久しぶりに沖縄に行ってきました。
50歳を前に、仕事ばかりでは後々後悔すると思い
始めたものがいくつかあります。そのひとつが旅行でした。
そして、最初に選んだ場所が、なぜか沖縄だったのです。
とても気に入り、それから5年ほど毎年通っていたのですが、
このところ7~8年足が遠のいていました。
久々の沖縄は、以前の印象とほとんど変わっていませんでした。
美しい海。艶やかな琉球文化。基地の街。そして戦争の爪痕。
温暖化による珊瑚の白化。辺野古への移設問題。戦争の風化…等々、
あの当時叫ばれていたことは、なにひとつ問題は解決されぬまま、
さらに深刻さを増しているようです。

一方で、京都同様、外国人旅行者の増加には驚くばかりです。
東アジアの人たちから見れば、東京や大阪より、近くて、美しくて、
アメリカナイズされた不思議な街は、魅力的な観光地に違いないのですが…。
これほどとは思いませんでした。
穴場の観光地やベースにしたホテルは、半数以上が外国人旅行者でした。
日本人で多かったのは、修学旅行の学生たち。
丁度シーズンだったようで、いろんな場所で彼らと遭遇しました。
『平和祈念資料館』や『ひめゆりの塔』でさえ騒がしい彼らに、時に怒りを覚えましたが、
遥か昔の自分を思い起こせば、五十歩百歩なのかもしれません。
若さとは身勝手なものです。老いとは哀しいものです。

天気には恵まれました。今年最後の台風がフィリピンに向かったため、
滞在した4日間晴天が続きました。日中は夏日となり、10月下旬だというのに、
海岸には水着姿の人もいました。
かつて何度か足を運んだ「美ら海」や「様々なテーマパーク」はパスし、
自然を満喫するドライブや沖縄民謡のライブ、そして街歩きに時間を割きました。
沖縄の美しい海と空と自然と音楽と…ゆったり流れる時間に身を置けたことで、
英気を養うことができました。
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(10月3日更新)

夏の終わり、箱根に足を延ばしました。
まだ日差しは強かったものの、高原の風は秋そのものでした。
小田原駅近くの安くて美味い寿司屋で地魚を食べ、温泉につかり、
これまた、箱根では外せない鰻の名店で、少し贅沢をしました。
一泊二日の遅い夏休みです。

のんびりした旅のなかで、その多くの時間、ひとりの友人に想いをはせていました。
彼は「I」さんと言います。私にとっては、業界で唯一、戦友とでも呼べる人でした。
私が、この世界に入ったきっかけは、大学3年の時、私塾のような専門学校の
シナリオ科に通い始めたことです。その唯一の同期がIさんでした。
Iさんは、浪人し留年し、就職せずに、そこへ通っていました。
だから、同期といっても私より3学年4つ年上です。

私たちの共通の師は、専門学校の校長だった「O」先生。
私たちは、1カ月に1度くらいのわりで、
書き上げた作品を先生に見せに行くということを始めました。
O先生は、私たちのシナリオを受け取ると、新しい原稿用紙をくれました。
たまに感想はありましたが、添削のようなものはありませんでした。
いつの頃からか、私たちは先生に渡す前に互いの作品を見せ合い、
批評し合うようになりました。渋谷の公園や目黒の喫茶店で・・・。
思えば、これが私のシナリオの勉強でした。
交換して作品を批評するようになり、すぐに力の差に気付きました。
私のそれがただのストーリーなのに、Iさんのものは作品になっていたのです。
「俺は無理かもしれないけど、Iさんは絶対プロになれるよ」何度目かの時、
そう話したことを、昨日のことのように覚えています。Iさん、嬉しそうでした。

そんな私たちに、O先生は同じようにチャンスをくれました。
Iさんのデビュー作となった刑事ドラマも、別々にプロットを書き、
Iさんのものが採用されました。
私のデビュー作となった別の刑事ドラマでも、私はベテラン作家と共同脚本に
なったのに対し、Iさんは一人で書きあげました。
映画の脚本デビューも同じアニメ作品。嬉しくて、一緒に映画館をはしごしました。
スクリーンではなく客席のほうを見て、客の反応を確かめました。
劇場ごとに時間帯や客層の違いで、反応が全く異なり、ふたりして驚きました。
思えば20代の大きな転機となった瞬間には、いつもIさんが一緒だったのです。
ただ、僕たちの実力の差は、開けども縮まることはありませんでした。

私は、趣味でシナリオは書けても、これで食っていくのは無理だと・・・
いつもそばに居たIさんの存在で、思い知らされたのかもしれません。
ちょうどその頃、報道情報系の番組でも、構成作家を使うようになり、
私は、そちらに仕事の主戦場を移していくことになります。
「食える」という意味では、方向転換した私のほうが早かったと思います。
でもIさんは、ぶれることなくシナリオを書き続け、
刑事ドラマや2時間ドラマで頭角を現し、
やがて、連続ドラマやNHKの朝のテレビ小説も書く売れっ子になりました。
最近では、シナリオの私塾を開き、後進の指導にも力を注いでいたようです。

そんなIさんが亡くなったという知らせは、突然でした。癌でした。
互いに仕事が忙しくなった30代以降は、年に1、2度会って話す程度でした。
彼のブログを読むと、亡くなる少しまえ・・・
長年シナリオを書き続けてきたことを回顧している文面がありました。
すでに体調が悪かったはず、なんとなく察していたのかもしれません。
彼は、現役のシナリオライターのまま亡くなりました。
世に出てからは、仕事が途切れることはなかったそうです。
「Iさんは絶対プロになれるよ。」40年前の私の眼力は正しかったわけです。
「Iさん」と書きましたが、映像学校の仲間は彼を「純ちゃん」と呼んでいました。
いつも優しくて、面倒見のよかった「純ちゃん。」
大人になってから、私が「ちゃんづけ」で呼んだ、唯一の人です。
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(8月28日更新)

今年の夏は、義父に母方の伯父が二人、そして愛猫モモと愛犬チョコの初盆でした。
大切な人たちや家族同然のペットの死は、
なるべく経験したくないものですが、避けられないのも事実です。
出会いがあり、楽しい思い出があればこそ、別れは悲しいわけで・・・
深い悲しみは、幸せだった人生と背中合わせなのですから。

写真は、気分を変えて『今年の夏』食べた美味しいもの・・・
横浜オイスタバ―「G」の岩ガキと大粒蠣の食べ比べ。
横浜うなぎ屋「N」の白焼き。
自由が丘タイ料理「K」のトムヤムクン。
軽井沢そば屋「K」の出し巻き卵。
新横浜日本料理「M」の毛ガニ。
御殿場バル「N」のハラミステーキ。
横浜中華街「M」の有頭蝦のニンニクチップ炒め。
私は夏痩せするタイプではないのですが、今年は体重が減りました。
原因は分かっています。ペットロス。
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(7月1日更新)

ほぼ10年一緒に暮らした、トイプードルのチョコが亡くなりました。
人間の年齢に換算すると、まだ50代の後半くらいです。
肝臓に悪性の腫瘍ができていました。完全に飼い主の怠慢でした。
異変に気付いて2週間ほどで病気が判り、その時には手遅れでした。
前日まで散歩をし、数時間前まで好きなものを食べ、私が仕事から帰ってくるのを待っていたかのように亡くなりました。
かわいくて、やさしい犬でした。自分より3歳上のメスのチワワにいつも気を使い。
同居する末娘のボディーガードを気取って、毎日添い寝していました。
時々、駅まで迎えに来てくれることがあり、家族を見つけた時の、その反応は・・・
嬉しさを体中で表し、はしゃぎすぎて、そのまま死んでしまうのではと思うほどでした。
犬を飼った者にしかわからない、無垢な愛情を与えてくれました。
この10年、どれだけ癒され、どれだけ豊かな気持ちにさせてもらったことか。
あの世というものがあるのなら、私を最初に迎えてくれるのは、
きっとチョコに違いないと思います。
見つけた時の、あの目一杯の喜びを全身で表しながら。また、会おうね。チョコ。
去年の秋には、猫のモモが・・・そして、チョコが亡くなりました。
あとに残されたのは、1日のほとんどを寝ている13歳の老犬と15歳の老猫です。画像63

(5月16日更新)

今年、久しぶりに石川県と福井県の局から仕事の依頼がありました。
石川と福井、隣り合わせの県です。
北陸地方以外の人にとっては、正直見分けのつかない県かもしれません。
石川には金沢という人気の観光都市があり、能登半島があるので、
まだ、イメージしやすいかもしれませんが、
福井は若狭湾くらいしか地図の目安になりそうな所はありません。
むしろ、福井と富山を混同している人がいるかもしれませんね。
拙宅の最寄り駅新横浜からの行き方は、全く違います。
石川(金沢市)には、東京駅経由北陸新幹線「かがやき」で、およそ3時間。
福井市には、東海道新幹線米原経由「特急しらさぎ」で、やはり3時間ほど。
本州の真んなか日本アルプスを挟んで、北廻りか、南廻りか、全く違うルートです。
かかわった番組も、全く違うタイプ。どちらもやりがいのある作品でした。
石川と福井、放送局事情をみてみると、これまた全く違います。
石川県は民放4社(日テレ系、TBS系、フジ系、テレ朝系)があるのに対し、
福井は全国でも数少ない民放2社(フジ系と日テレ・テレ朝をクロスネット)しかありません。
いまやBSやケーブルテレビで全国放送が見られるとはいえ、この差は大きいのです。
金沢という一大観光都市がある石川に比べ、福井はこれといった観光地は
永平寺と東尋坊しか思い浮かばないのですが・・・最近は恐竜で巻き返しを図っています。
駅前には、リアルな恐竜がいて、思わず写真を撮りました。
地方局の仕事、好きです。
担当ディレクターだけでなく、部長、局長、みんなで作るみたいで…。
テレビの古き良き時代が、そこにはあります。そんないい雰囲気を味合わせてもらえて感謝です。
いつもの通り日帰り。越前そば、ごちそうさまでした。画像62

(4月19日更新)

全くの偶然で、去年と同じ日に(4月8日、9日)、京都に行く機会がありました。
去年はどこへ行っても満開の桜でしたが、今年はどこへ行っても葉桜でした。
本来なら盛りを過ぎた桜が散る、桜吹雪の頃のはずなのですが・・・。
桜は諦めて、青紅葉を見に東福寺に立ち寄りました。
紅葉の頃には、撮影禁止になるほど混雑する臥雲橋や通天橋も、
全く人がいません。貸し切り状態。同じ拝観料でも得した気分です。
なかに赤く色づいたものも。春に紅葉する種類もあるようです。
今回、番組で取材させていただいた店に、こっそり行ってきました。
食べておかないと、書けない表現があると思っています。
グルメ番組には縁がありませんが、それでも人気店や名店といわれる店が
担当した番組のなかに出てくることがあります。
それらを、廻るのも仕事のうちかと・・・
役得なのは、取材して内情を知っているので、より美味しく感じられることです。
映像で知っているものと、実際とでは印象が違うものも多々あります。
番組の関係者であることは、言いません。
ご主人と話をしすぎて、ばれたことが過去に1度だけありますが・・・。
日本料理の「K」。噂にたがわず良い店でした。旬のタケノコを堪能しました。
最終日の夕食は、名古屋で途中下車して、駅近くの「S」という肉料理の店に。
去年秋の伊勢参りの時に感銘を受けた店です。今回も絶品の味でした。画像61

(3月8日更新)

記録的に寒かった冬が終わろうとしています。
少し早い春を探しに、箱根に行ってきました。
早咲きのカワズ桜の他にも、コバ桜や名前は知りませんが、
ソメイヨシノに近い品種の桜も咲いていました。
桜は勝手に春の花だと思っていますが、冬にひっそり咲く桜も良いものです。

箱根の入り口にある、県立「生命の星・地球博物館」に立ち寄り、
地球誕生の神秘や生物の進化の物語に触れてきました。
日頃、悩んでいることなどが、バカバカしくなるほどのスケール感でしたが・・・
一方で、小さな悩みや苦しみに翻弄されるのが、
人間の証なのかもしれないと思い知った次第です。

箱根寄せ木細工の博物館で、匠の見事な職人芸に触れ、
何年も前から行きたいと思っていた鰻の名店で舌鼓を打ち、
もちろん温泉にもつかり、小田原の「おでん」の店でほっこりしました。

春を待たずに、またひとり大好きだった母方の伯父が逝きました。
亡くなった人たちのことを思いながら、
一目ぼれした寄せ木細工の猪口で、献杯を重ねる今日この頃です。画像60

(1月31日更新)

年が変わりました。
去年は、個人的にはあまりいい年ではありませんでした。
世話になった父方や母方の叔父や叔母が亡くなりました。
暮れには、義父も逝きました。
70代、80代、90代、同世代のなかでは長生きだったかもしれませんが、
できることなら、もっと、という思いでいっぱいです。
9月には、いつも一緒にいてくれた猫も死にました。
人間と猫を並べるのが、不謹慎と思われる方もいるかもしれません。
しかし、悲しみという点では同じです。大切だったという点でも同じです。
百日が過ぎても、残されたもう一匹が、いなくなった相棒を探しています。
まだ健在な叔父や叔母たちも、
それぞれ病を抱えたり、深刻な老いに直面したりしています。
生きるというのは、つくづく大変なことなのですね。
暮れの1日、京都に途中下車し、龍安寺の庭を見てきました。
有名なつくばいの言葉…『吾唯足知(ワレ、タダ、タルヲ、シル)。』
そんな境地には、ほど遠い気がしています。画像59

(12月16日更新)

秋のお伊勢参り2泊3日は、今年一番のグルメ旅でもありました。
伊勢に行く前、昼過ぎに松阪で下車。お目当ては当然、松阪牛です。
一番の名店は定休日でしたが、地元の人が勧める「K」に行きました。
たぶん、これまで食べたすき焼きのなかでは、間違いなく一番でした。
外宮のお参りを済ませ、夜は伊勢市の寿司屋へ。
ここも行きたかった店は、2か月前に予約を入れた時にすでに満席でした。
そこでガイドブックで見つけた店「I」を予約しました。
台風の通過直後で不漁だったはずが、こちらも大満足の味でした。
古民家を改装した立派な佇まいでしたが、台風直後とあって客は2組だけ。
先にいた客が帰ったあとは貸し切りでした。
店の娘さんが、同級生に私と同姓の「岩井田さん」がいたと教えてくれました。
その岩井田さんは、代々続く伊勢の名士のようで、私が予約を入れた時点で、
「どんな方が来るのか、楽しみでした」と言ってくれました。
還暦過ぎまで生きてきて、名前で得をしたのは初めての経験でした。
伊勢には「岩井田」という地名があることも、初めて知りました。
2日目は、内宮めぐりのあと伊勢うどんを食べ、伊勢根付を買い、
そのまま、サミットが開かれた賢島へ。
夜は、各国首脳にも腕を振るったという女性シェフのフランス料理。
アワビに、伊勢エビ・・・滅多にないご馳走でした。
3日目、昼は英虞湾にある小さな食堂で、カキなどの鉄板焼き。
フランス料理より、私の舌にはこちらのほうが合いました。
そして夜、名古屋駅近くの肉割烹「S」へ。
開店して、まだ1年という店でしたが、ここの肉が最高でした。
この旅で食べてきた料理の記憶が、一瞬すべて吹き飛ぶほどの
衝撃を受けました。滅多にないことです。
いつも「安くて口に合うものが一番のごちそうだ」と思っていますが、
この肉が食べられるなら、少しは高くても良いか・・・と思いました。
「私はただ、美味い肉が食いたいだけなんだ・・・」
なんとなく、分かる気がしました。画像58

(11月16日更新)

先日、伊勢神宮に参拝してきました。実に50年ぶりのお伊勢参りでした。
子供のころ、父親の仕事の都合で小学校を4回5校変わっています。
鹿児島⇒京都・伏見区⇒大阪・西区⇒大阪・城東区⇒東京・北区。
大阪の諏訪小学校で、6年生の時に行った修学旅行が伊勢志摩でした。
当時のことは、旅館での枕投げと、翌朝眠い目をこすりながら見た
夫婦岩に昇る朝日のことは鮮明に覚えています。
しかし伊勢神宮参拝のことは、ほとんど記憶に残っていません。
つまり、実質初めてのお伊勢参りだったわけです。
江戸の庶民が、一生に一度は行きたいと願った場所。
訪れたのは、日本列島を巨大台風が直撃した翌日で、
観光客が極端に少なく、特に外宮は貸し切り状態でした。
人がいないということもあり、ただでさえ静寂に包まれた境内は、
一層神秘的で心が洗われる感じがしました。
1日目は外宮だけ、2日目に内宮を巡りました。
記録的な大雨により五十鈴川が増水し、
正式な清めとなる川でのお清めは出来ませんでしたが、
参拝客が少なかったぶん、ゆっくりとお参りできました。
あまりに人が少ないため、本当なら人だかりができるはずの
パワースポットといわれる外宮の「三ツ石」や
内宮の「四至神(みやのめぐりのかみ)」などを、
あやうく見過ごしてしまいそうになりましたが、なんとか見つけました。
毎年は無理でも、出来れば数年に一度は行ってみたい場所が、
またひとつ増えた気がします。
昼間からお神酒を飲み、伊勢うどんを食べ・・・
時代を超えた日本人の感性に触れたような気がしました。
参拝のあとは、賢島まで足を延ばし、サミットが行われた会場へ。
ホテルから見る英虞湾に沈む夕日が、とてもきれいでした。
50年前は朝日が、今回は夕日が印象的でした。
ちなみに、私は小学校の修学旅行に2回行っています。
大阪で伊勢志摩へ。6年の2学期に引っ越した東京で、日光へ。
なんだか得した気分になった50年前のことも、思い出しました。画像57

(9月23日更新)

いつも傍にいてくれたサバトラが、先日亡くなりました。モモという名前のメス猫です。
昔、近所の猫屋敷から家内がもらってきた猫です。
共に暮らして15年。子猫は、あっという間に年齢を重ね、
人間の歳にすると、私をいつしか追い超していました。
猫の15歳は、人間なら75歳くらいだそうです。
なぜか私に一番なつき、生涯のほとんどを、
仕事場でもある私の部屋で過ごしました。
帰宅し部屋に入るとき 「モモ、ただいま」と呼ぶのが、
私の長年の日常でもあったわけです。
小さく美しい声で、「ミャオ」と応えてくれたものです。
人見知りが激しく、よその人はもとより、
家族でも抱っこされたのは私と末娘のふたりだけ。
一方で、おとなしい手のかからない子でした。
時々パソコンのキーボードの前に来て寝ころび、
撫でて欲しいと甘えるだけで、しばらく遊ぶと、
部屋の隅やパソコンの陰に隠れて、じっとしていました。
ベランダでのブラッシングが大好きで、
私が眠るときは、いつも添い寝をしてくれました。
ここ1カ月ほど食が細くなり、
最後の1週間は寝たきりのような状態でした。
病院へは連れていきませんでした。
環境が変わるだけで、ショック死しそうな気がしたからです。
亡くなるときも、少し呼吸が荒くなってから
20分ほどで静かに息を引き取りました。
「手間、かけなさすぎだよ・・・」
いまは、小さな壺に納まった遺骨を、
お気に入りだった部屋の隅に置いています。画像56

(8月20日更新)

夏は祭りのシーズンでもあります。
青森のねぶた、仙台の七夕、深川の水かけ、大阪の天神、徳島の阿波踊り、
高知のよさこい、博多の祇園山笠・・・あげたらきりがないほど、
この時期、日本中で様々な祭りが開催されます。
そうした祭りの多くが、赤字になっているというニュースが流れていました。
見物客、なかでも団体客が減少し、有料見物席がなかなか埋まらないそうです。
それぞれの祭りが、昔より肥大化し、客を奪いあってきたせいかもしれません。
よその祭りをわざわざ見に行こうというパワーが、
主な客である中高年から薄れているのかもしれません。
また、行きたくても金銭的余裕が、枯渇してきているのかもしれません。
色々な「かもしれません・・・」が複合的に絡み合って、
特に全国区となった有名な祭りがピンチです。
私も7月に、京都に祇園祭を見に行きました。
日本三大祭りに数えられる祇園祭さえも、ここ数年赤字だそうです。
不特定多数の人からインターネットを介して資金を募る、
クラウドファンディングを利用しているという話も聞きました。
それでも沿道には、動く芸術といわれる『山鉾巡行』を見ようと、8万人の観衆が詰めかけ、
宵山には見渡す限り屋台が出て、暑い京都の夏の夜を彩っていました。
川床や納涼床で鱧や鮎料理に舌鼓をうち、暑気払いする知恵も素晴らしいと思いました。
その祭りに魅せられた人は、毎年は無理でも、またやってくるでしょうし・・・。
派手になりすぎてイベント化してきた祭りが、地元の人たちの生活に根ざした、
本来の形に戻ろうとしているのなら、それはそれで良いと思うのですが。
どうせ暑いのならと、大好きな京都のラーメンを並んで食べ、
そのあと、かき氷も食べました。当然、宇治金時です。画像55

(7月22日更新)

先月、久しぶりに地方局の仕事をしました。
世界遺産に決まった「沖ノ島」がテーマです。
最初に電話で「オキノシマの話です」と依頼されたときに、
私は「隠岐の島」と勘違いしました。「世界遺産」という言葉が出るまで、
相手のかたと私は別々の島を思い浮かべて話をしていたことになります。
その「沖ノ島」、一般人の入島は基本許されていません。
今年まで「大祭」の時、
応募者のなかから200人ほどが抽選で入島できました。(男性のみ)
しかし世界遺産登録が決まり、それも取り止めになるようです。
今年およそ700人のなかから選ばれた200人余りの人たちは、
じつにラッキーだったのかもしれません。もう、宗像大社の神主になる以外、
普通の人は「沖ノ島」に行くことが許されないのですから・・・。
福岡にある九州朝日放送の制作です。
わずか4日の間に2度、福岡に足を運びました。
新幹線に5時間近く乗って、現地で4時間、そして5時間かけて戻りました。
福岡に行った気分を味わえたのは、昼食の博多ラーメンだけ。
新幹線で移動すると、つくづく日本も広いなと・・・感じます。
関門トンネル越えると、空気感まで違って来るのが分かります。
故郷が鹿児島の私には、何だか懐かしい感じがしてくるから不思議です。
片道5時間近い旅。
でも、車内で売っていた人気の日本酒『獺祭』を飲み、
大好きな「清広のさば寿し」を食べ、
日本一固いと言われる「アイスクリーム」を楽しみ、
本を読んで、うとうとしていると、意外と早く着いてしまいます。
毎回、上りも下りも、名古屋から岡山辺りまで記憶がありません。
ちなみに、日本には離島だけで6847もあるそうです。
なかでも稀有な「沖ノ島。」
行きたくても行けない世界遺産の島です。ご高覧ください。画像54

(6月15日更新)

1泊2日ですが、京都の春を楽しんできました。
ここ数年は、3月に早春の古都を散策してきましたが、
今年は久しぶりに花吹雪の舞う京都の町を歩きたいと、
3週間ほど遅らせ4月中旬に行きました。
しかし、開花が遅れたため、まさにドンピシャの満開。
イメージしていた花吹雪には少し早すぎましたが、
どこへ行っても桜いっぱいの京都を満喫できました。
初日は小雨。地下鉄の1日フリーパスを買って・・・
まずは、秀吉の花見で有名な醍醐寺へ。
続いて、線路内を歩きながら桜が見られる蹴上インクライン。
南禅寺を廻って十石舟巡りで知られる岡崎疎水(そすい)まで。
夜はライトアップされます。
二日目は、朝まで降っていた雨が上がり・・・
まず嵐山を散策後、嵐電に乗って桜のトンネルへ。
桟敷の茶屋が開かれる、京都市民の花見のメッカ平野神社を経て、
東山へと一気に足を延ばし哲学の道へ。
1年に数日しかない桜満開ど真ん中の京都を堪能できました。
十年分の花見を一遍にしたような気分です。
それにしても、日本人は桜が好きですよね。
卒業や入学といった人生の節目を彩る桜は、
それぞれの人生の思い出にも、花を添えているのかもしれません。
「敷島の やまと心を人とはば 朝日に匂ふ 山さくら花」
なんて有名な歌もありますが、桜は日本人にとって特別な花です。画像53

(3月18日更新)

食べることは好きです。しかしわざわざ遠くへ出かけて行って、
いわゆる名店(予約をしなかれば席が確保できないところ)で、
食事をすることはほとんどなくなりました。春と秋の京都くらいでしょうか。
横浜に住んでいますが、中華街や元町などからも足は遠退きました。
毎日のように外で飲んでいた時期もありましたが、それもおっくうです。
反して、近所の気にいった店に足を運ぶようになりました。
打ち合わせに来た人を、連れていくこともあります。
我が家から徒歩で行ける駅は5つ(なかには20分はかかる駅もありますが・・・)。
JRの「新横浜」、東横線の「菊名」、「妙蓮寺」、「白楽」、そして市営地下鉄の「岸根公園」。
その近辺の店です。同じ場所に35年近く住んでいますが、
暫く、近所に良い店はないと思っていました(知らないだけだったのですが・・・)
ここ数年で、常連になった店が何軒かあります。
焼肉店の「A」。肉の卸問屋が出しているこの店は、安くて、うまい。
倍から3倍の料金を出せば、ここより美味しい店は数多あるでしょうが、
値段と質の高さとのバランスで、ここ以上に満足できる店を私は知りません。
割烹「M」。夫婦だけでやっている小さな店です。
散歩の途中で見つけて、通うようになりました。
日本酒の種類は多くありませんが、ラインナップは好みです。
魚料理が食べたくなったら、とりあえずこの店を目指します。
イタリア料理の「P」。近所では最もオシャレな店。まだ3年目くらいの新しい店です。
若いシェフが頑張っています。ランチは満席に近いようですが、
夜、ふらりと行くと、結構広い店なのに他に客がいない時も・・・。
こんな店が長続きして欲しいものです。
遠くの名店より、安くて普通に美味しい近くの店。
酔っても歩いて帰れるので、ポイントが高くなります。画像52

(2月25日更新)

ほとんど自慢できるものはありませんが、魚を食べるのは上手です。
柔らかい骨の魚は、骨まで食べてしまいます。頭と尻尾も残らないことも。
料理屋でも(それがマナー的にどうかは別にして・・・)
「凄いですね」と言われることが、よくあります。
60年以上前、海辺の実家に帰って私を産んだ母からは、
「お前の離乳食は魚だったから・・・」と、度々聞かされていました。
どうやら私の魚好きは、筋金入りのようです。
でも、ときどき無性に肉が食べたくなる時があります。
そんな時は、しゃぶしゃぶ、すき焼き、トンカツ、生姜焼きの類ではなく、
決まってステーキか焼肉です。
何だか、エネルギーを直接補給している気分になります。
時々、料理をスマホの写真で撮ります。
撮りためたものを見ると、肉が多いのです。
先に書いたとおり、「肉」より「魚」が好きだし、
食べる回数も魚料理のほうが圧倒的に多いのに、写真は何故か「肉。」
しかも、生姜焼きやトンカツなども食べるのに、
写真に残しているのは、「ステーキ」か「焼肉」なのです。
やはり、生肉には不思議な力があるような気がしてなりません。画像51

(1月5日更新)

明けましておめでとうございます。年々、1年が短くなっているように感じられます。
還暦を過ぎれば、あの一休さんが狂歌で詠んだように・・・
『門松は冥土の旅の一里塚』なのかもしれません。
年末は、しめ飾りもせぬまま、台湾に行っていました。
台湾へは、去年の夏初めて行き、治安も良く、食事もおいしく、
なによりフレンドリーな雰囲気が気に入り・・・再訪した次第です。
夏はゴルフが目的でしたが、台湾をよく知る仲間たちが一緒だったので、
観光旅行としても充実していました。
ただ、故宮博物院に行けなかったことが心残りだったで、
今回はそれをメーンに、主に台北を3泊4日で散策しました。
地下鉄を使い、地元で人気の店で小籠包や台湾料理を食べ歩きました。
前回は昼の風景しか見ることができなかった、
近郊の観光地「仇分(きゅふん)」の夜も散策しました。
ただ、ほとんど歩けないほどの混みようでしたが・・・。
前回はむしろ避けて通った有名な『阿妹茶酒館』で、茶芸も楽しみました。
中正記念堂の衛兵交代式も、ほとんど偶然見ることができました。
年越し寸前には自宅に帰りつき、1日の夜からは仕事を始めました。
年始早々、仕上げなければならない番組があったためですが・・・
今年は、今まで出来なかったこともやれればと思っています。画像50

(12月2日更新)

今年も色づく京都に行って来ました。
去年があまりに無残だったせいか、比較的美しい紅葉を見ることができました。
しかし、艶やかというほどでもなく、この10年では『中の下』というところでしょうか。
毎年のように行く東福寺は、通天橋からの撮影が禁止になったこともあり、
素通りして光明院へ。人の数は100分の1くらいでしょうか。静かに庭を愛でました。
雨の日、インスタグラムを見ていたら『瑠璃光院』の人気が高いので足を運びました。
ところが八瀬比叡山口駅を降りると、長蛇の列が目に飛び込んできたのです。
なんと、入場券を買うまでに1時間かかると言われ、すぐに諦めました。
乗って来たばかりの比叡山電鉄にそのまま飛び乗り、3つ戻って修学院駅へ。
『赤山禅院(せきざんぜんいん)』を目指すことにしました。
雨のなか15分歩いたのが大正解。
紅葉の名所のひとつなのに、嘘のようにひとっこひとりいませんでした。
紅葉に彩られた参道も境内も、まるで貸し切り状態。
雨には濡れましたが、今回一番の思い出の風景になりました。
思うに、どうもインターネットでの情報に、みんな踊らされている気がします。
それと、ここ数年感じていたことですが外国人の観光客の多さ・・・。
経済のためには良いことでしょうが、今年はさらに凄いことになっていました。
例えば、渡月橋はまるで連休のディズニーランドのよう。人の波でした。
もはや京都は、日本人の癒しの街では無くなった気がしています。
今度は、わざと桜と紅葉の時期を避けて行くことになるのでしょうか・・・。
あまりに寂しい気もしますが。画像49

(10月21日更新)

地方へ出かけた際、お土産に苦労します。何が美味しいのか・・・今はネット情報などが豊富で、
失敗は少なくなりましたが、一方でその失敗の楽しさもなくなりました。なんでしょうかね・・・。
ただ場所によっては、絶対迷わないものがあります。今週、福島と静岡のテレビ局に行きましたが、
この2つの県では全く迷いません。
福島には「ままどおる」、静岡には「うなぎパイ」という鉄板があるからです。共に半世紀を生き抜いた銘菓。
特に50年近く前、「ままどおる」を食べた時の衝撃は、私の記憶のなかでも相当上位に位置するものです。
私は子供の頃、全国を転々とする生活を送りました。大叔父(父親のおじ)が土木の親方でした。
ダムや新幹線そして地下鉄・・・トンネル掘りが上手で、勲章まで貰った人です。
多いときには200人以上働いていたでしょうか。その半数は季節労働者。大半が東北の人でした。
彼らは帰省するたびに、親方の隣りにいつも座っているかわいいい子供にお菓子を買って来てくれました。
私のもとには、大げさに言うと日本国中(特に東北と九州)の銘菓が山と積まれたのです。
でも、たいていは「名物に旨いものなし」でした。「なんだよこの饅頭。なんだよこの煎餅。けっ!」
そんなクソ生意気な餓鬼の常識を打ち砕いたのが、「ままどおる」だったのです。
食べた瞬間から、私のなかでは日本一美味しいお菓子として燦然と輝きました。
その後似たような味のお菓子も出てきましたが、50年近く前に出会った時のあの感動は忘れられません。
美味しい「ままどおる」を買って来てくれる人は、福島の郡山から毎年やって来ていたおじさん。
その顔と名前は、今でもはっきり覚えています。やはり、お土産は厳選しなければと思う次第です。画像48

(9月29日更新)

今年の夏休みは、家内の実家がある信州・松本で過ごしました。
去年は、たった1泊でとんぼ返りしたため(仔細は去年書きました)
今年は大好きな松本を久しぶりに堪能できました。
信州の名物といえば、いろいろありますが・・・
私的には「そば」に「馬刺し」でしょうか。それに、鯉の甘煮、鰻もいいですね。
それを肴に、温泉上がりに日本酒を飲む。私のおススメは「御湖鶴」「美寿々」。
その他にも、美味しい日本酒が沢山あります。米も水も環境もいいからでしょう。
帰省する度に酒を酌み交わしていた義父は、少しずつ痴呆が進み、
もうビール1杯が関の山になりました。大正15年生まれの90歳。卒寿です。
その義父は、夕方になると家の前の道路のそばでいつも佇んでいます。
仲の良かった友達が、麻雀の迎えに来るのを待っているようです。
家の中に入ることを勧めても、なかなか諦めません。
その友だちのほとんどは鬼籍に入りました。義父はそのことも忘れているようです。
20年ほど前、『ボケのち晴れ!』という
養護老人ホームのドキュメンタリーを作ったことがあります。
ご当人たちは案外楽しそうだったのが印象的でした。
その老人ホームには特に仲の良いお婆ちゃん同士がいて、
「この人とは本当に話が合うの・・・」と飽きずに昔話をしていました。
その二人、実の姉妹なのです。
互いがその存在を忘れ、共通の思い出を仲良く語り合っていたのです。
周りは大変でも、本人たちにとっては、少しずつ何かを忘れていくことは
ひょっとして幸せなことなのかもしれません。
死ぬことさえ怖くなくなれば、それもまたよしです。
私もいずれ、そうなるんでしょうね。画像47

(8月9日更新)

週末を利用して、2泊3日で台湾へ行って来ました。目的はゴルフ。
ただ、昔のように2日続けてプレイするには気力も体力も無く、
ほとんどグルメツアーのようなありさまでした。
土曜の昼下がりに羽田を発つと、台北に夕食時間に到着します。
空港も市街地に隣接しているので、とても便利。無駄なく時間を使えます。
初めての台湾でしたが、同行者たちは何度も来ている人たちだったので、
ただ付いていくだけでとても楽しい旅になりました。
しかも、普段ロケ隊をアテンドする台湾人の優秀なコーディネーターまで、
友人として同行してくれたので、至れり尽くせり。
ゴルフは35度の猛暑のなか、予想通りバテバテでしたが・・・
信仰のシンボル龍山寺、世界有数の高さを誇るビル台北101、
人気の仇分、そして屋台が楽しい夜市に、安くて上手な足裏マッサージ。
台湾が初めての私のために、同行者たちは、
すでに何度も訪れたであろう定番コースを廻ってくれたので、
観光旅行としても実に愉快なものになりました。 みなさんに感謝!
噂通り、台湾の人たちは日本人に対してとても優しく、
ほとんどの場所で日本語が通じるので、
海外旅行というより国内旅行に近い感覚でした。
ゴルフ場も日本人が多く、町でも日本の家族連れを大勢見かけました。
ハワイと双璧を誇る人気の海外旅行先だということは知っていましたが、
それを実感する旅になりました。治安も良く、食も大満足の台湾。
ハマってしまう人が多いというのもうなずけます。 画像46

(7月2日更新)

私の星回りである「九紫火星」は、今年飛躍の年です。そんなことを、気にする性格(たち)です。
厄除けなどにも、ちゃんと行きます。 20年ほどまえ、改名もしました。
私の本名は「利治」と言いますが、ペンネームとして「洋光」を使うようになりました。
出逢ったある人から、「利治」は晩年運が良くないと言われたからです。
当時、私は40代になったばかりで、仕事もプライベートも順調といえば順調で、
晩年のことなど考えなくても良かったはずなのですが・・・。
いつの間にか、その晩年に入り(四柱推命では50代半ばから晩年というそうです)
今後の運勢はどうなるのか・・・。
今年に入って、あまり良いとは言えなかったのですが、少しずつ運気が上がって来たようです。
最近あった、些細な「幸せ」を列記します。
2年ほど咲かなかった庭のユリが、花をつけました。
義母が接ぎ木をしてくれたバラが、ピンクの大輪を咲かせました。
あるクジで、宝塚の観劇券が当たりました。
半年ぶりに行ったゴルフで、人生で初めて1発もOBを出さずに回れました。
毎回検査する度に切除していた腸のポリープが、今回はセーフでした。
そして、5人目の孫が産まれました。
20年前の改名のご利益を、信じてみようと思います。画像45

(6月6日更新)

我が家の庭が、一年で一番華やかな季節を迎えています。
特に色とりどりのバラが、庭を席巻しています。
なかでも今年は、サーモンピンクのチェリッシュが目をひきます。
その艶やかなバラの間には、小さな野草も・・・。
キク科の白い花々に、かんざしのような丸い花をつけるアルメリア。
鮮やかな青色のロベリア。北アメリカや南米、アフリカ原産の花々。
小さな庭は、とんでもなく国際的なのです。画像44

(4月25日更新)

秋に球根を植えたチューリップが、次々と開花しています。
赤・エンジ・紫・黄・白・・・と、色はばらばら。
次に何色が咲くのか分らないので、それはそれで楽しみです。
チューリップの花言葉は・・・。
去年、熊本朝日放送開局25周年番組『きっとある虹色の道』という番組に、
構成協力というかたちで関わりました。
熊本出身の絵本作家・葉祥明さんの目線で、
郷土の美しい山河と四季を追いながら、
1年をかけ熊本をテーマにした絵本を作っていくというものです。
たぶん九州だけでしかOAしませんでしたが、
民放連の九州・沖縄地区で優秀賞を獲得しました。
http://www.kab.co.jp/25th-ehon/
とにかく美しい作品でした。熊本の素晴らしさに溢れていました。
なかでも、雲海に代表される阿蘇の自然の移ろいは、息をのむ絶景でした。
その熊本が、阿蘇が、大変なことになっています。
あの雄大さを造った要因でもある地殻の変動が、
そこに暮らす人たちに、いま深い悲しみをもたらしています。
庭に揺れるチューリップを見ながら、自分に何ができるのか・・・考えています。画像43

(3月25日更新)

先週、春浅い京都へ行って来ました。
「ソメイヨシノ」のつぼみは、開花までもう少しという感じでした。
去年も同じ時期に散策したので、
桜には早いというのは十分承知していたのですが、
ぶらぶらしたくて出かけました。
花吹雪となって、桜が舞い散る頃の京都も素敵ですが、
開花前の時期もいいものです。早咲きの桜も見つけました。
嵐の前の静けさ・・・
人出は、たぶん1週間後の10分の1以下だったでしょう。
どうしても立ち寄りたい料理屋も、
この時期ならすんなり予約が取れます。
最近嫌なことが、いくつかありました。
験直しの京都で、春の兆しを見つけたいと思いました。
毎回一ヶ所は、未知の場所に足を延ばすようにしています。
今回の初めての場所は、嵐山の『大悲閣千光寺。』
渡月橋を渡り、保津川沿いに小一時間ほど歩く場所にあります。
対岸(右京区側)は大勢の観光客で溢れているのに、
何故かこちら(西京区側)は人がいません。
いま話題の旅館『星のや京都』の、真裏の崖の上にある禅寺です。
崩れ落ちそうな崖を登って行くと、その崖にへばりつくように閣があり、
そこから、なんと京都市内まで見渡せます。まさに絶景!
そして特筆すべきは、この崖の上まで登って来た者は、
誰でも3回立派な梵鐘をつくことができるということです。
(入山料400円は要りますが)
「ゆく年くる年」でも中継されたという釣鐘を、思いっきりつきました。
自分がついた鐘の音が、保津川から桂川とつながり・・・
そのまま京都の市街地にまで響き渡るようで、快感!でした。
日本人より外人(欧米人)が多いという(たまたまかもしれませんが)
不思議な寺でした。境内にいた柴犬の「すみれちゃん」にも癒されました。画像42

(2月23日更新)

『文藝春秋』の3月号に
「88人の最後の言葉」という企画が掲載されています。
10代で命を絶った少年から百歳まで生きた作家まで、
その遺書や遺言が特集されていました。
88人のなかに、ちょうど60歳で亡くなったかたが二人。
手塚治虫さんと色川武大さん。
手塚さんは、誰もが知る漫画の神様です。
大学生の頃、白馬の山小屋でアルバイトをしていた時、
偶然見かけたことがあります。小学生だった息子さんと、
一休みしたあと山頂を目指して登って行かれました。
「あんな忙しい人でも山に登るのか・・・」と思ったことが、
昨日のことのように甦ってきました。
色川武大さんは阿佐田哲也の別名で
『麻雀放浪記』を書いた無頼派の作家。
雀士ってこんな顔をしているのか・・・
と憧れたことがあります。
そんな人たちが亡くなった年齢と、
自分が同じ歳ということが不思議です。
88人のなかには、仕事をしたことのある人も・・・。
逸見政孝さんは48歳。田中好子さんは55歳。
筑紫哲也さんは73歳。新井将敬さんは50歳。
橋田信介さんは61歳。
一度もお目にかかることはありませんでしたが、
昭和の大スター、美空ひばりさんと石原裕次郎さんは
共に52歳。松田優作さんは40歳・・・。
ほとんどの人が、私より早くに逝っているのです。
先日、同じ年に生まれた従妹が亡くなりました。
同い年だったのに、誕生日前だったため享年は59。
何十年と透析を続け、闘病生活の長かった人でした。
子供の頃、ともに帰省した鹿児島の田舎で過ごした
夏休みの日々が思い返されます。
いつも溌剌としていて、美しい人でした。

(1月30日更新)

やっと本格的な冬の寒さが、首都圏にも到来した感じです。
野に咲く花には厳しい季節ですが、
室内には、鉢植えのシクラメンや蘭の花が咲き誇っています。
色鮮やかで美しい花たちは、そこだけ別の季節のようですが・・・。
ふと見ると、庭の椿が見事な花を咲かせていました。
寒さのなかで耐える椿が、いっそう凛と冴えて神々しくもあります。
温室のなかの華麗さか、厳しい自然のなかの気高さか・・・
1世紀前なら余命ともいえる60代を、どう生きるか・・・。
今年一番だという寒波到来の日に、
そんなことをつらつらと考えています。画像41

(1月13日更新)

明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
私はこの1月に還暦を迎えます。暦が一巡りしたわけです。
日本人の平均寿命は、江戸時代が45歳。
明治、大正の時代はさほど伸びず、
昭和に入ってからも、戦争前は50歳に達していません。
1世紀早く生まれていたら、60歳は十分長寿だったわけです。
60代をどう生きるか・・・真剣に考えてみたいと思います。
正月は、十年ぶりにスキーに行っていました。
家庭サービスとは縁遠い暮らしをして来ましたが、
年に一度冬休みにスキーへ行くことが、
我が家の唯一ともいえる恒例行事でした。
中断したのが、末娘が大学に入った十年前。
もう二度とスキーに行くことはないと思っていたのですが、
今度は孫たちが出来る歳になりました。
まさに、暦は繰り返しているのです。
去年のモルジブは、天候に恵まれましたが、
今年の越後湯沢は、暖冬で雪が少なく残念でした。
結局、年末では終わらなかった仕事を旅先にも持っていき、
仕事ときどき酒と蕎麦と温泉の正月でした。画像40

(12月26日更新)

2015年も、あっという間に終わろうとしています。
私にとっては、50代最後の年でした。
その年の瀬・・・今年の仕事納めは、有るのでしょうか?
正月早々に放送する番組を、年末に次々と仕上げています。
旅に出る大晦日までには、何とかけじめをつけたいものですが・・・。
先日も、朝から深夜まで打ち合わせやプレビューが続き、
赤坂・六本木界隈の局やスタジオ、制作会社を行ったり来たり。
ラーメンをかきこんで、足早に次の場所を目指していると・・・
やたらカップルが多いことに気づきました。クリスマスイブでした。
忘れていたことに、一瞬呆然としてしまいました。
見れば、美しいイルミメーションもきらめいています。
写真のケーキは、ある制作会社でプレビューの合間にオジサン6人で食べたもの。
これが今年のクリスマスケーキとなりました。
さらば、2015年。さらば、50代。
【追】
私に年賀状を出そうとしている奇特なかたが、
もしこれを見ていたら、出さなくて結構です。
私はもう10年、自分からは年賀状を出していません。
メールで結構です。
良いお年をお迎えください。画像39

(12月3日更新)

一泊二日で京都に行って来ました。
しかし、今年の京都の紅葉は、私が知る限り最悪でした。
自然のことですから、毎年、違いがあるのは仕方ありませんが・・・。
色づく頃に、冷え込みが少なかったからではないかとは、地元の人の弁。
(今年の京都の11月の気温は、140年間で一番高かったそうです。)
一方で、人出は記憶にないほどの混みようでした。
中国や台湾、タイなど東南アジアからの旅行者が急増したためです。
その人たちに、京都の秋ってこの程度かと思われたとしたら無念です。
紅葉が自慢の寺や神社などは、ほとんど入場料が必要です。
入口には最も美しい年のポスターが貼られ、「見ごろ」と書かれた文字も。
安くはない金を払って、そこに無惨な風景が広がっていたとしたら・・・。
『今年の紅葉は例年にくらべ色あせています。それで、よろしければ』
そんな断り書きを出しているところがあれば、むしろ嬉しくて入ったでしょう。
でも、私が見た限り、その種のものは一枚もありませんでした。
今年は、入場料の要るところは、できるかぎり素通りしました。
初日は無料公開の京都御所、南禅寺から哲学の道、法然寺、金戒光明寺へ。
途中の永観堂や真如堂は、外から眺めるか、境内を通るだけ。
二日目は、去年行きそびれた妙心寺の大法院へ。
ここで初めて入場料を払いました。但し、抹茶と菓子付きで700円。格安です。
そこから嵐山に足を延ばしました。
渡月橋周辺の色づきは、紅葉というよりくすんだ感じ。
嵯峨野を散策しましたが、残念な色づきのうえに、混んでいるのが嫌で、
秋が一番美しい、常寂光寺、二尊院、祇王寺には立ち寄りもせず。
人が少ない宝厳院、宝筐院、厭離庵と小さめの庭をめでました。
来年は、是非とも燃えるような紅に染まる秋の京都が見たいものです。画像38

(11月14日更新)

近所にハワイアン風のパンケーキ専門店が出来ました。

しばらくは行列ができていましたが、落ち着いてきたところで、
先日、家族とブランチに出かけました。

パンケーキ。私たちの世代で言えば、ホットケーキです。

周りが大人だらけの環境で育ったせいか、

オシャレな料理を食べる家庭ではなかったせいか、

ホットケーキを食べた最初の記憶は、10代後半だったと思います。

同様に、グラタンやハンバーグなども小さいころ食べた記憶はありません。

スープより味噌汁。スパゲッティーよりうどん。煮物や煮つけ、干物・・・

そうした料理が多い家庭でした。

ホットケーキの存在すら知らずに、長い間過ごしていた感じがします。

ただ、漫画ポパイに出てくる太っちょのおじさんが、いつも片手に持っていた

ハンバーガーの存在は知っていました。憧れの食べ物でした。

そのハンバーガーを初めて口にしたのは・・・

やはり高校生になってからだと思います。

パンケーキの専門店で、そんな話を家族にすると・・・

宇宙人を見ているような眼をされました。

フライパンで簡単に作る料理だから「パンケーキ」。

「おばあちゃんは、そんな手抜きの料理を作らなかったわけよ!」

口まで出かかったのですが、言いませんでした。

たぶん母は、生涯一度もホットケーキを食べたことがないと思ったからです。画像37

(10月6日更新)

一気に秋ですね。
身近なところでは、この季節に花をつける野草の「岩シャジン」が満開です。
デパートのエントランスにも、秋の花壇が飾られていました。
食べ物も美味しくなる季節です。
昼食は打ち合わせなどの合間をぬって外食が多いのですが、
この時期は大戸屋の「サンマ定食」が好きで、今週は3日連続食べてしまいました。
鰻も天然ものの旬は、夏ではなく秋から冬にかけてです。
でも高いので、養殖もので満足していますが。

【追】
去年8月6日に放送した「ヒロシマを遺した男」(テレビ新広島)と
去年9月30日に放送した「ガイアの夜明け・福島の未来のために・・・」(テレビ東京)が
共に今年の日本民間放送連盟賞の優秀賞を受賞しました。画像36

(8月30日更新)

今年も、夏休みらしい休みはとれませんでした。
7月上旬に伊豆の川奈にゴルフで1泊。
7月下旬に軽井沢にゴルフ。これは日帰りでした。
そして、8月のお盆の時期に家内の故郷である信州松本に帰省しました。
家族は先に帰し、私は2日遅れで合流、2泊3日の夏休みを楽しむつもりでしたが、
あるタレントさんの都合で、ナレーション原稿が早く欲しいという連絡が入り、
私だけ1泊で切り上げ、自宅に戻って仕事をしました。
喜んだのは留守番をしていた猫たちだけ。(猫だけでも喜んでくれてよかったです)
ことわざに「泣く子と地頭には勝てぬ」というのがありますが、
この仕事をしていると「泣く子とタレントには勝てぬ」ということでしょうか。
結局、たった1日しか居られなかった松本ですが・・・大好きな街です。
学生時代、山小屋でアルバイトをしたことがあります。
松本は乗換えの駅で、夜遅くに到着し、始発まで便が無く、
その間、何度か夜中の町をぶらぶらしたことがありました。
北アルプス(西山)と筑摩山地(東山)に囲まれ、清流が町を潤す・・・
そして国宝松本城に代表される城下町ならではの文化の香り。
戦火を逃れ、古い家並みが残っているのも魅力的でした。
人口も20万人強と、人が住むにも丁度いい大きさの町です。
しかし、最近は不義理をしており、私が松本に帰省するのは7年ぶりくらいでした。
あずさ号に乗ったのも10年ぶりくらいだったでしょうか。
久しぶりなので、炎天下でしたが、駅から家内の実家を目指して歩きました。
途中の町並みは整備され、以前よりきれいになっていたのですが・・・
なんだか昔の魅力が薄れていました。よそゆきの町になってしまった感じです。
好きだった蕎麦屋さんは廃業し、行きたかった鰻屋さんは、商売っ気もなく休業。
一方で、知らない店も何軒もできていて・・・観光客が列を作っていました。
さすがに並ぶのは嫌なので、町はずれで見つけた初めて入る蕎麦屋に寄りました。
そこで大雪渓の純米吟醸酒と蕎麦料理を、ゆっくり味わいました。
支払いの時、何時出来たのかを聞くと「5年前です」とのこと。
やけに5年という時間が、短く、せつなく感じました。画像35

(7月27日更新)

今年も広島で8・6特番を作っています。今年のテーマは「胎内被爆者の70年」。
「ヒロシマ」「ナガサキ」に原爆が投下されたとき、推定2万5千人の妊婦が、
お腹の中の赤ちゃんとともに亡くなりました。
しかしあの地獄から、生きのびた母親がいます。そして、新しい命をつなぎました。
母親の胎内で被爆し、生まれてきた赤ちゃんは、少なく見積もっても9千人。
その人たちは、今年70歳を迎えます。どんな半生だったのでしょうか。
今回は、ひとりの人物にスポットを当てるというより、胎内被爆者と呼ばれ、
最も若い原爆の被害者でもある人たちの声を、なるべく多く聴きたいと考えました。
そこで証言集の構成にしました。
そして判ったこと・・・
これまで全く別々の人生を送って来た胎内被爆児たちの多くが、
不思議なことにいま同じ道を歩もうとしていることです。
この作品も、広島・長崎だけでなく、
是非なるべく多くの人たちに見て欲しいものです。画像34

【追】昨年8・6特番で放送した「ヒロシマを遺した男」が、
民放連中国四国地方の審査で最優秀賞を受賞しました。
中央での最終審査に向かいます。

(7月12日更新)

拙宅のJRの最寄り駅は「新横浜」です。
同じ場所に住んで30年以上になります。
家を建てる時、なぜこの場所にしたのか・・・決め手のひとつが新幹線でした。
新横浜~東京間の回数券は、私の必需品ですし、地方局に行くのも便利です。
例えば静岡の局へは、お台場のフジテレビに行くより早かったりします。
6月7月と足しげく通っている広島からも、20時発の「のぞみ」に乗れば、
23時半には新横浜に帰ってこられます。
東京駅で東北や北陸新幹線へ乗り換えれば、これまた便利です。
つい先日も、金沢の局へ日帰りで行って来ました。
私は新幹線に乗ると、ほっとします。
特に帰りは、新横浜から徒歩圏なので、乗車イコール自宅に着いたも同然と、
酒を飲んだり、本を読んだり、眠ったりとリラックスします。
これは飛行機では絶対味わえない、個人的な安心感だったのです。
その新幹線で事件が起きました。例の焼身自殺です。
自分で自分に火をつけなければならないほど、
当人にもいろんなことがあったのでしょう。
しかし、それに巻き込まれて亡くなった人にとっては、あまりにも理不尽です。
技術立国ニッポンと安全・安心なニッポンの象徴だった新幹線での事件。
なんだか言い知れぬ不安を感じている、広島行の新幹線のなかです。画像33

(6月23日更新)

私にとって、年に一度の釣りのシーズンがやって来ました。
今年の舞台は、沖縄・与那国島、東京湾、伊豆諸島・神津島の3ヶ所。
狙うは30キロ超えのカンパチ、江戸っ子が命を懸けて食したという危険な美味、
そして釣り師たちが「オオカミ」と呼ぶ謎の高級魚です。
こうした番組を担当すると、
日本が世界に誇る海洋国家だということがよく分かります。
日本の国土面積は世界でみると60位前後にすぎません。
しかし領海や排他的経済水域で見ると、その広さは国土の12倍。
世界第6位という、有数の巨大大国へと変身するのです。
そう思うだけで、大海原に繰り出し、怪魚を釣り上げてみたくなるじゃないですか・・・。
写真の一枚、頭だけの食いちぎられたカンパチの写真。
20キロクラスのカンパチを次々と釣り上げても、
それを横取りするバケモノがいました。
海の彼方は、底知れない世界なのです。画像32

(5月31日更新)

いま小さな庭に、いろんな色や形のバラが咲き誇っています。
バラの花言葉・・・同じ色にもいろんな意味があるようですが、
男女の関係の花言葉に絞ってみると・・・
白は『純潔』、ピンクは『恋の誓い』、赤は『情熱』、
オレンジは『誘惑』、黄色は『嫉妬』、黒赤色『憎悪』・・・
そう考えると、我が家の庭は凄いことになっています。画像31

(4月29日更新)

チワワと柴犬のミックス「まろ」が我が家にやって来て、半年ほどたった頃、
買い物に出かけていた家内と息子が、子犬を抱えて帰ってきました。
聞けば、ホームセンターで購入してきたとのこと。今回は何の相談もなくです。
「だってあんまり可愛いいんだもの。
マロンじゃあなたの散歩の相手にならないでしょ」
確かに小さな「まろ」は、(「マロン」と「まろ」の使い分けは既に書きました)
散歩に行ってもすぐに歩くのをやめ、いつも抱っこして帰ってくる有様でした。
その犬は、当時人気になりかけていたトイプードル。
我が家のペットは、それまで、少なくとも初期費用はかかっていませんでした。
死にかけていた野良猫の赤ちゃん「チャッピー」。
猫屋敷から貰い受けて来た「モモ」。
そして知人から譲り受けた「まろ」。3匹ともタダでした。
しかし、今回のトイプードルには大金を支払ったようです。
父親はアメリカのチャンピオン犬だとかで、初めての血統書付でもありました。
「抱っこしても、全く動かないの。こんな可愛くておとなしい子いる?」
と家内。確かに置物のように動かず、ぬいぐるみのような犬でした。
子供たちが付けた名前は「チョコ」。見ての通り、こげ茶色をしているからです。
しかしこれが、とんでもない犬だったのです。
あれから、ほぼ10年。
私の帰宅は、仕事の都合で1年のうち半分、200日近くが深夜になります。
2時、3時は早いほうで、5時、6時になる時も。
当然、家族はみんな寝ています。
私がそっと玄関の鍵を開けると、きまって居間にいるチョコが吠え出すのです。
普段はおとなしいのに、人の気配を察すると吠えます。
それも、周り近所が起きてしまうのではないかというほどの大声で・・・。
番犬としては優秀なのかもしれませんが、
こっちはあわてて、居間までダッシュするはめになるのです。
私の顔を見れば、すぐ鳴きやむのですが・・・ほぼ毎日のことなので、
「お前、覚えろよ!」と叱るのですが・・・どうやら、バカなのです。
近所のみなさん、すいません。
また感情が抑えられず、いわゆる「うれション」もします。
だから普段「おしめ」をしています。
その「おしめコレクション」もバカにはなりません。
金のかかる犬です。でも可愛いのです。画像30

(4月7日更新)

春が一気にやって来ました。
我が家の小さな庭も、急に彩り鮮やかに・・・。
「椿」や「水仙」はいつの間にか散っていましたが、
「かいどう」「照手桃」「花桃」「バラ」
それに鉢植えの「仙台しだれ桜」が満開です。
春ですね~。
花見酒といきたいところですが、
腸にできたポリープを3つ切除し、暫く禁酒です。
春なのに…。画像29

(3月20日更新)

チャトラとサバトラ、2匹の猫との生活が当たり前になった頃、
家内が今度は犬を飼いたいと言い出しました。
娘の友達の家でチワワと柴犬のミックスが生まれて、
そのうちの1匹を貰ってくれないかと言われたそうです。
「あなたのメタボ対策。散歩のお供よ」という理由もついていました。
ほどなく小さな犬が家族に加わりました。
7匹生まれた中で、一番小さく、
チワワの血が色濃いメスを貰って来たということでした。
片手の手のひらに乗るほど小さく、容姿はチワワのような柴犬のような…。
子供たちが付けた名前は「マロン」。
でも私は、この子の眉毛がお公家さんの化粧のような位置にあるので、
「まろ」と呼ぶことにしました。あれから、もうかれこれ10年。
「まろ」は大きくなっても、両手のひらに乗るほどしかなく、
「マロン」と呼ばれようが「まろ」と呼ばれようが、
いつも勢いよく抱きついてきます。
そして今では、我が家の女王様のような位置を確保しています。
飼ってみて分かったのですが、チワワは人懐っこく可愛いのですが、
一方でとても気が強くしつこいのです。
その気性の荒さに一番戸惑っているのは、
「まろ」の半年後に我が家にやってくることになる
「チョコ」という気のいいオス犬です。画像28

(3月4日更新)

病院食です。お世辞にも美味しいとはいいがたい食事です。
それでも私のぶんは、一番良いメニュー。制限がないからです。
人によっては、量が半分位だったり、白湯のようなお粥だったりといろいろです。
2月の第1週と第3週に2泊3日ずつ入院しました。
2、3年前から眼に霞のようなものがかり、ぼやけていたのです。
1年ほど前、眼科で見てもらい「白内障」だと分かりました。
去年の秋ごろからは、メールを読むのも困難になり、手術してもらうことにしました。
いま、白内障の手術の主流は日帰りです。そのつもりでいたのですが、
眼球に少し問題があって、万一を考え地域の中核病院の眼科を紹介されました。
結果は、噂通り「白内障の手術」は、あっという間に終わり痛みも無かったです。
ただ、大きな病院を紹介されるようなリスクを抱えた患者ばかりですので、
同じ日に同じような手術を受けた人の中には、手術時間は私よりはるかに長く、
術後まで痛みがあり、退院まで数週間要すると言われた人もいました。
また、総合病院なので、同じ病棟の患者は眼の病気の人だけではありません。
抗がん剤治療を受けている人や腎臓病が悪化し危篤になる人も・・・。
私より若い人も大勢いました。入院すると、つくづく健康の大切さが身に沁みます。
定期検診は大事ですが、40歳、50歳、60歳のような人生の節目に、
健康な人も1週間くらい入院するのを義務付けてみたらどうでしょう。
その後の生活改善に、効果絶大だと思うのですが・・・。
何人かの患者さんと知り合いになりました。
大きな病と闘っている人ほど、健気で、強くて、優しいのが印象的でした。
そして、美味しくはない病院食ですが、他に楽しみがないと・・・待ち遠しくなるものです。画像27

(1月23日更新)

1月2日、モルディブからシンガポールに入りました。
香港・上海などとともに、「ガイアの夜明け」でもよく取り上げる
アジアを代表する国際都市です。
しかし、私がこの街を訪れたのは38年ぶりでした。
20歳の時、初めて海外を一人旅した時に立ち寄った国のひとつがシンガポールでした。
その時は、これから何度となく来ることになるだろうと思っていたのですが・・・。
ガーデンシティーの美しさに感激し、
観光開発が始まったばかりのセントーサ島のビーチで、
ごろ寝して過ごした思い出があります。
今回は、若い頃には敷居が高かったラッフルズホテルにも立ち寄りました。
このアジアを代表する歴史あるホテルのレストランで、
2年前から日本の白ワイン「甲州」がリストアップされています。
(1月13日OAのガイアでも取り上げました)
今回一番感じたのは、物価の高さでした。
20歳当時のレートは1ドル240円ほどだったと思いますが、
それでも物は安いと感じた記憶があります。
今回は120円でも高いと思いました。例えば、写真のロブスター麺。
一杯36シンガポールドル。3300円くらいします。
街並みもマリーナ・ベイ・サンズに代表される変貌ぶり。
ちょっとした浦島太郎のような感じでした・・・
バーで、記念にシンガポール・スリングを飲みました。また、来られるとは限りませんから・・・。
38年前は、そんなこと考えもしませんでした。歳をとるとは、そういうことでしょうか。画像26

(1月10日更新)

明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
私は申年の早生まれ、同級生の多くが今年還暦を迎えます。
私自身は50代最後の年…。時が経つのは、本当に早いものです。
年末から年越しは、インド洋に浮かぶ島国モルディブに行っていました。
家を出て目的地に着くまで、丸一日近くかかる場所に待っていたのは、
予想を上回る絶景とゆったり流れる島の時間でした。
1200の島からなるモルディブですが、観光開発が進み、
今や100に及ぶ島がリゾート地になっています。
一方で温暖化による海面上昇があと1メートル進むと、
全国土の80%が消失する危機にもさらされています。
そんな、はかなく天国のようなサンゴ礁の島で、
眩しい朝日に起こされ、透明の海に遊び、白い砂浜で昼寝し、
美しい夕焼けに胸震わせ、満天の星を眺めて眠る。
これまでの人生で経験したことのない時を過ごしました。
もし死に方を選べるとしたら・・・
このシンプルな1日の営みのなかで、ヤシの木陰に横たわりながら、
出来ればほろ酔い気分で、波の満ち引きに合わせて・・・なんて思ったりもしました。
新年へのカウントダウンは、居合わせた様々な国の人たちと一緒に。
ロシア、フランス、イタリア…欧州の人たちが半数以上。
次にインドの方。その次に日本人が多く、韓国・中国、そしてアフリカの人たちもいました。
まるで小さな島が、ひとつの国、ひとつの星のようでもありました。画像25

(12月26日更新)

いつになく穏やかな12月でした。
予定していた、年末年始の特番の何本かが大幅に延びたためです。
連日徹夜が続く、これまでの年のほうが異常だったのかもしれません。
2015年のスケジュール帖はオレンジ色にしました。
持ち物は黒か白が多いのですが、手帖だけは毎年、派手な色にします。
14年は黄色、13年はゴールド、その前は赤でした。
理由は見つけやすいから。これ、意外と大事なことです。
クリスマスを終え、正月の準備を済ませて、
今年も取材を兼ねた旅に行ってきます。
アジアで一番時間がゆっくり流れる場所と、
経済が沸騰する街を見てきます。
今年もありがとうございました。来年も宜しくお願いします。画像24

(12月14日更新)

師走の京都・・・紅葉も素晴らしかったですが、美味しい料理も堪能しました。
京都は、和食はもとより、焼肉、ステーキ、うなぎなど・・・
全国のランキングでも五指に入るような名店が一つの町に存在する稀有なところです。
日本の食の中心はもちろん東京ですが、東京は広すぎて多すぎて、一つの町の範疇を超えています。
その点、京都は狭いエリアで日本の食文化の高さに酔いしれることができます。
今回行った店の、それぞれ印象的だった料理を一品ずつ写真にアップします。
1日目(昼)・・・日本で一番居心地のいいフランス料理店。 メインで出て来た、蝦夷シカのソテー。
1日目(夜)・・・日本で一番好きな日本料理店。 牡蠣とキノコの炊き合せ。ここの汁もの、椀物、ご飯は最高です。
2日目(昼)・・・関西で一番好きなうなぎ店。 うな重。鯉の洗いも絶品です。
2日目(夜)・・・人気急上昇中の和牛懐石の店。 近江牛の入った真薯。メインの熟成ステーキより印象的でした。
3日目(昼)・・・現代の名工が作る寿司店。 京都の定番 鯖寿司。
3日目(夜)・・・日本で一番好きな焼肉店。 諸事情により写真は撮れません。
至福の三日間でした。しばらくは、納豆飯で生きていけそうです。画像23

【追】
芭蕉庵のある金福寺に向かうとき、道に迷い、住宅街の中で小さなケーキ屋さんを見つけました。
京都でケーキはないだろうとは思いましたが、歩き疲れたので一服しました。
とても美味しかったのですが、そこは京都で一番評判の高いケーキ屋さんだと、あとで知りました。
こんなこともあるのですね。

(12月6日更新)

師走の京都に「なごりの紅葉」を見に行きました。
永観堂、東福寺・・・紅葉の名所も相変わらず見事でしたが・・・
今回行ったなかでは、嵐山近くにある「鹿王院」が特に印象的でした。
住宅街の中にある小さなお寺ですが、
門から本堂へと続くアプローチの紅葉のトンネルが様々な色に染まり、
別世界に誘ってくれます。
嵐山を借景にした紅葉は、スケール感こそ欠けますが、
来訪者がほとんどいないので、貸し切りのようで「まったり」できました。
1年で最も混雑する11月の3連休でも、嵐山のメインルートから外れているため、
ゆっくり紅葉をめでることができるそうです。
天授院・金福寺・詩仙堂・曼殊院門跡にも足を延ばしましたが、
さすがに比叡山山麓はひと月遅すぎた感じでした。
苔むしたさびれた庵に、はらはらと紅葉が散るさまに・・・なぜ、深い美意識を感じるのか・・・。
蕪村が建てた「芭蕉庵」でそんなことを考えた、小春日和でした。
「そうだ 京都、行こう。」20年前から放送しているCMのシリーズのなかで・・・、
今も覚えているコピーがふたつあります。
ひとつは「六百年前、桜を全部切りました。春より秋を選んだお寺です」
もうひとつは「子どもは ひと夏ごとに おとなは ひと秋ごとに 
何か大切なものを身につけていくように思います」 画像22

【追】
8月に放送された「ヒロシマを遺した男~原爆資料館誕生秘話~」(テレビ新広島)が
ギャラクシー賞奨励賞を受賞しました。

(11月15日更新)

秋の庭には、四季咲きのバラがぽつりぽつりとしかなく、
なんとなく寂しいと思っていたら、ヤブコウウジには赤い実がなり、
金木犀にも黄色い小さな花がびっしりとついていました。
今年も我が家のモミジは、赤くなりません。どうやら西日が強すぎるようです。
名前も知らない紫の花が、頑張って咲いています。
寒椿も花をつけていました。「貴婦人」という種類で、綺麗な花です。
今年も、もう冬支度です。画像21
【追】
映画「和ちゃんとオレ」が、ABU(アジア太平洋放送連合)賞の
テレビドキュメンタリー部門の最優秀賞を受賞しました。

(9月13日更新)

死にかけていたチャトラの子猫が「チャッピー」と名付けられ、
元気に家のなかを駆けまわるようになった頃、
帰宅するとサバトラの子猫がおびえていました。「どうしたの、この猫?」と聞くと、
「チャッピーひとりじゃ可哀そうだから、もうひとり貰ってきちゃった」と、家内。
「ひとりじゃないだろ、一匹だろ」という言葉を飲み込んで、
「どこから?」と聞き返したのが10年近く前の話です。
すると近所の猫屋敷から、数十匹いる猫のうち、最も美人をゲットしてきたとのこと。
ただ、まだ眼が開いていないまま家に来たチャッピーと違い、
その猫は生後半年ほど猫屋敷で野生同然で飼われていたので、簡単には捕まえられず、
エサでおびき寄せ、檻に追い込んで捕まえたということでした。
そのせいで、そのサバトラの子猫はおびえきっていたのです。
特に、自分を檻に追い込んだ家内に対しては敵意丸出しで、威嚇しながら逃げ回る始末。
その反動からか、何故か私にはなつき、何時もついて廻るようになりました。
ほぼ10年経った今も、家内にはなついていません。メス猫の恨みは執念深いのか、
悪魔を見るように逃げ回り、私に助けを求めるのです。
結果、私がいない時でも1日のほとんどを私の仕事部屋で過ごし、
私が帰ってきて仕事をしている時は傍でじっと見ています。
疲れてベッドに横たわると添い寝までしてくれます。名前は「モモ」。
「モモはあなたの愛人ね」と家内。
「愛猫だろ・・・」という言葉を飲み込んで、モモとじゃれる毎日です。
しかし、我が家のペット物語はこれでは終わらなかったのです。
【追】
事後報告ですが、先日「新週刊フジテレビ批評」という番組に出演しました。
1時間番組の生放送のうち25分ほど、上智大学の音好宏教授と
フジテレビのドキュメンタリーの過去と現状と未来について語り合いました。
テレビ初出演。余りに恥ずかしかったので、事前にお知らせしませんでした。
土曜の朝5時からという時間なので、誰も見ていないと思ったのですが・・・
今更ながらテレビの恐ろしさを実感しています。画像20

(8月18日更新)

丁度10年前、我が家に瀕死の子猫がやって来ました。
近くのマンションの塀と塀の間に産み落とされた一匹で、
顔には舗装用のコールタールがくっ付き、ぼろ雑巾のようでした。
片手の手のひらに乗るほど小さく、まだ眼も開いていません。
たしか、そのマンションに住んでいた娘の同級生のママ友からの依頼でした。
それまで、動物を飼うことには反対し続けていた家内が、
この時ばかりは、何故か引き取ることに積極的だったのです。
子猫が衰弱していたこともあり、
まだ中学生だった子供たちも交代で世話をしました。
スポイドで乳をやり、ベビーフードを食べさせ、添い寝しているうちに、
いつしかチャトラの子猫は、目をあけ、元気に遊び廻るようになり、
「チャッピー」と名付けられ、家族の一員になっていました。
チャッピーは目が開いた時から、うちの家族としか接しなかったためか、
しばらくは自分のことを人間だと思い込んで成長したようです。
それにしても、きれい好きで、家のなかに動物の毛が落ちていることなど
許せなかった家内が、何故あの時は死にかけた子猫を受け入れたのか・・・。
丁度子供たちが手を離れ、心にポッカリ穴が開いていた時期だったようです。
いま動物病院のドキメンタリーを作っています。
人は何故ペットを飼うのか? そんなテーマです。
そして10年前、思いがけなく家族となった猫が、
その後の我が家を大きく変えて行くことになります。画像19

(7月21日更新)

「ヒロシマ」カタカナで書くと特別な意味を持つ街です。
5月、6月と1本ずつ広島で番組を担当し、そして7月になっても、2週間に一度の割で通い続けています。
今回は8・6特番。原爆が落とされた日に放送するドキュメンタリーを制作しています。
2年に一度くらいの割で、原爆の日の特番を依頼されるようになって、かれこれ10年近くになるでしょうか。
(ほとんどの作品は広島県内だけで放送され、全国放送には至りません。
原爆の番組を、たぶん日本人の多くは見たくないのでしょう。
しかし広島の局は、どこも使命感を持って毎年作りつづけています。長崎もきっとそうなのでしょう・・・)
番組を作るために、繰り返し原爆に関する資料や取材映像を見ていると、
時々この街は本当に存在するのか・・・幻ではないかと思える時があります。
実際住んでいる人には判りにくい感覚かもしれませんが・・・、原爆投下直後の映像を見たあと、
横浜の自宅に帰るため、局から駅までタクシーで移動する途中に見える
賑やかな広島の街が蜃気楼のように思える時があります。
人類が造った最も恐ろしい兵器で、一瞬にして焦土と化した悲劇の街。
放射能に汚染されたヒロシマは、当時75年間は草木も生えないとさえ言われたのです。
そこに今、120万人近い人々が暮らし、日本で11番目の街が実在するのです。
外国人の姿も目につきます。
みんな人類の負の世界遺産「ヒロシマ」を見に来て、この街の繁栄に驚愕するようです。
本当は「TOKYO」ではなく「ヒロシマ」でオリンピックを開催すれば、
それだけで大きな意味があると思うのですが・・・。
今年の「原爆特番」は、長岡省吾という人物をとりあげます。原爆資料館の初代館長。
調べれば調べるほど凄い人です。ほとんど資料はありません。関係者の証言だけが頼りです。
今回は、再現ドラマを組み込んだ構成にしました。出来れば全国、いや世界中の人に見て頂きたいのですが・・・。
今年もヒロシマは、忘れてならない残酷な夏を迎えます。画像18

(7月2日更新)

京都に行って来ました。
式年遷宮中の下賀茂神社、改装なった平等院。梅雨の晴れ間に恵まれました。
京都へ出張が決まると、私はまず「I」という日本料理店に予約の電話を入れます。
昼夜、3組ずつしか客をとらないこともあり、いまでは京都で最も予約の取れない店のひとつですが、
私は何故か一度もカラぶりがありません。それが縁というものかもしれませんが・・・。
その後、フランス料理の「K」、肉料理の「A」と予約を入れ、
この三軒が決まれば、もう京都の旅は成功したも同然です。
三つの店には共通するものがあります。それは「居心地が良くて」「美味くて」「安い」ということです。
どの店も、女将さんの客あしらいが抜群です。そして、厨房や板場で腕を振るうご主人の腕の確かさ。
多分その分野では、超が付く一流でしょう。更に、出る料理の内容に比して、お得感があること。
一人前2万円、3万円が当たり前の京都ですが、それだけ払って美味しいのは当然です。
私の料理の目安は1万円まで。流石に日本料理の夜のコースでは、それを越えることもありますが、
いくら年に数回しかないこととはいえ、自腹を切る身としては、「安い」は外せない条件です。
今回はこれに、評判の良いイタリア料理店「K」を加えてみましたが、
先の三軒に比べると・・・大きな隔たりを感じました。
今度、私にとっての垂涎の三軒を廻れるのは、何時になるでしょうか・・・。出来れば、紅葉の季節に。画像17

(6月10日更新)

6月は私にとっては釣りの季節です。
毎年6月に、フジテレビ系列のテレビ新広島が、年に1回全国放送する釣り番組を、
長年担当しているからです。「ニッポンを釣りたい!」というシリーズになって今年で15回目。
それ以前は、世界に出掛けて行って大物を釣るシリーズもあり、20年近くこの時期、広島に通っています。
スタッフは釣り番組のプロ。40年近く続く週一の釣り番組で、ノウハウを蓄積してきた人たちです。
出演するタレントさんの都合で、多くは2泊3日。酷い時は1泊2日の強行軍です。
このスタッフ、その間に狙いの魚を釣らせる「引きの強さ」は、神がかりなところがあります。
1回に3組(人)出演してもらうので、15年間に45組(人)。
そのなかで目的の魚が釣れなかったのは、たった1回だけでした。
今年は特に悪天候で、タレントさんも大変だったようですが、それでも狙いの魚を見事にゲットしています。
この番組がきっかけで、「釣り」が趣味になった出演者は大勢います。
広く釣りの楽しさを知ってもらうために、極力専門用語は使いません。
「竿」「ハリ」「糸」その先にいる「エモノ」。そして判りやすいCG。
日本は海、川、湖と釣りには最高の国。せめて気分だけでも、番組を見て味わってください。画像16

昨年12月に放送された『私もきっと騙される』(テレビ東京・ザ・ドキュメンタリー)が、
TXNドキュメンタリー優秀作品賞を受賞しました。

(6月1日更新)

ひと月に、およそ半分地方に出掛けていた間に、
庭の花も春のものから初夏のものに変わっていました。
様々なバラ、百合水仙、その間に紫の岩シャジンや黄色い三時草も咲いています。
結局、5月だけで地方局の番組を5本担当しました。
そのどれもが、それぞれの局から賞にノミネートされることになります。
しかしこの賞というのが、また「みずもの」です。
手応えあるものが作れても、同じ土俵に更にパワーがある作品が登場してくれば、
当然不利になります。第一「良い作品」の基準も曖昧と言えばあいまいです。
審査委員の趣味趣向で、大きく意見が分かれるものです。
私自身も10年ほど前、4年間ほど、ある賞の審査委員を務めていたことがありますが、
私が納得できた作品が最優秀をとったことは、1回しかありませんでした。
自分がかかわった作品も、何度か賞を貰ったことはありますが・・・
意外な作品が複数の賞に輝いたり、反対に「これぞ」と思っていたものが、
全く相手にされなかったりと、いろいろです。
ただ賞をとれば、特に地方局では玄関ロビーの一角に
そのトロフィーや賞状が局の歴史となって飾られることになります。
「みずもの」の割には、とれるかとれないかは大きな違いになっていくのです。画像15

(5月14日更新)

富士川鉄橋から見える富士山が好きです。
この風景を、2週間で6回見ました。あと1~2回は見ることになるでしょう。
5月は私にとって地方廻りの月です。今年は、広島、福井、石川の3局で4本番組を作っています。
なぜ5月か? それは5月末日が民間放送連盟の映像祭の審査締切りになっているためです。
賞レースに参加するため、日本中の局が軒並みこの時期作品を発表するのです。
いろんな局から声をかけて頂きますが、レギュラーの番組を何週も休むわけにもいかず、
3~4本が限界でしょうか。地方のスタッフに上京してもらう時もありますが、こちらからも出かけます。
朝、8時頃の新幹線に乗ると、大抵12時頃には着きます。
広島ならお好み焼き。福井なら越前蕎麦。石川なら和食。昼飯は決めています。
昼食後夕方まで打ち合わせをした後、新幹線に飛び乗ります。そう、大抵は日帰りです。
その時、駅で地酒と肴を買い込み、車中で一人居酒屋を始めます。4時間ほど、酒を飲みつつ本を読む。
これが至福の時です。偶然ですが、私が仕事を受ける局は、美味い酒があるところばかりです。
時間に余裕があるときは、宿泊もします。地元を知り尽くしている地方局の方々に連れて行ってもらう店は、
100%ハズレがありません。加賀料理、ご馳走様でした。画像14

(4月25日更新)

特番などが重なり、気がつけば今年は桜を愛でぬまま、春は盛りになっていました。
我が家の小さな庭にも、いつの間にか花が咲き乱れています。
水仙。山桃、椿は既に散り、シャクヤク、ツツジ、テッセンが満開です。
艶やかな花の間に、丹丁草やクリスマスローズといった可憐な花も咲いています。
若い頃は「庭は雑草になるのでコンクリートで固めて・・・」なんて言っていた家内が、
何時の頃からか、せっせと草花を植え手入れを始めました。人って変わるのですね。画像13

(4月7日更新)

私の仕事の大きな比重を占める作業に、番組のナレーションを書くというのがあります。
近年、私が書いたナレーションを最も多く読んでいただいたのは、蟹江敬三さんでした。
「ガイアの夜明け」というレギュラー番組で、毎週のように読んでいただきました。
原稿を書く時、声を出して読みます。
読んでいただく方のトーンに合わせて、読みながら映像に当てて行きます。
蟹江さんなら、きっとこう読むだろう・・・などと思いながら。
そしていつも、OAを見ながら「上手いな~」と思ったものです。
スタッフが「蟹江節」と呼んでいた名調子は、もう聞けないのですね。合掌。

(2月17日更新)

東京に大雪が降った日から、次の大雪の日までほぼ1週間、
数年ぶりに罹ったインフルエンザで寝込んでいました。
予定していたいくつかの会議や番組の仕上げにも参加できず、関係者にはご迷惑をおかけしました。
1日の大半をベッドの上で過ごし、真夜中にはソチオリンピックの日本人選手に声援を送るという日々。
まるで、のんびりとした休日のようでもありましたが、そこは病気。39度以上の高熱と節々の体の痛みは、
本や資料を読む気力も消耗させ、ただ、ボ~ッとしている有様でした。
つらつら思い出すのは、年末年始のイタリアとフランスの旅・・・。
脳裏に刻まれた風景や芸術、毎朝食べたフランスパンのこと。画像12

(2月6日更新)

このところ続けて、福井に通っています。
地方局の仕事ですが、楽しみなことがあります。
そのひとつが、蕎麦。福井(越前)そばのもっともポピュラーな食べ方は、
蕎麦に薄口の出汁をはり、そこに大量の大根おろしを入れて食べる、おろし蕎麦です。
写真だけではその違いは分かりにくいと思いますが、
甘い大根あり、辛み大根あり、その両方一度に出すとこあり、
最初からぶっかけたのあり、汁にまぜたのあり、十割あり、二八あり・・・etc。
実に多彩で、実に美味いのです。
福井に行く時の昼食は、もうこれしか頭にありません。画像11

(1月25日更新)

2014年は、元日にパリに入りました。パリ市内から出ることなく、
ルーブル、オルセー、オランジェリー・・・美術館三昧でした。
暖冬のため、持っていたカイロは一度も使うことはありませんでした。
日本人観光客で溢れていましたが、
現地で購入したミュージアムパスがとても便利でした。
持っているかいないかで、ひとつの美術館に入るだけでも
2時間近く違ったと思います。
名画を見て、カフェでくつろぐだけの日々でしたが、
いい年の初めになりました。さて、仕事です。画像10

(1月21日更新)

2013年の年越しは、イタリアのフィレンツェでした。
美術番組や紀行番組で、私自身、外国では一番多くナレーションを書いて来た街です。
ダ・ヴィンチやミケランジェロやラファエロたちが行き交った奇跡の街。
新年へのカウントダウンを楽しみにしていましたが、トスカーナのワインを飲み過ぎて、
大歓声と花火をBGMに眠ってしまいました。今年はどこで、年を越すことになるのか・・・
1年はアッという間です。画像9

(1月7日更新)

明けましておめでとうございます。
50歳を過ぎてから、自分からは年賀状を出さなくなりました。
頂いたかたへは、後日、ご返事をするよう心掛けてはいますが・・・。
来る年賀状の数もそれに比例して、年々少なくなっています。
この10年で、パソコンなどが急速に発達したことも要因かもしれません。
年末は、ローマへ行っていました。
壮大な歴史を醸し出す街に、ただ圧倒されていました。
これまでにも行くチャンスはあったのですが、20代でこの街を知っていれば、
人生が変わったかもしれないとさえ思いました。画像8

(12月25日更新)

今年の仕事納めは12月26日。30年以上この仕事をしてきて、
こんなに早く徹夜から解放されるのは久しぶりです。
正月をまたいで2週間ほど取材を兼ねた旅に行ってきます。
今年もありがとうございました。来年も良き年でありますように。

(12月16日更新)

京都に行くと困ってしまいます。
どうしても行きたい店がいくつもあって・・・
日本料理はもとより、肉料理、フランス料理、そして雰囲気のいいバー。
年の瀬、仕事が立て込み徹夜が続くようになると、逃げ出して美味しいものでも食べに行きたくなります。
人生、あと何度そんな師走を迎えられるのでしょうか・・・。画像7

(11月21日更新)

早秋の京都・・・日本列島は広いですね。
北海道は雪だというのに、京都はまだ紅葉には早すぎました。
誰も居ない「紅葉の馬場」(二尊院)。青々とした「床紅葉」(実相院)。
静かな京都も、あと10日もすれば観光客で溢れます。画像6

(11月12日更新)

晩秋の北海道。
北国は一足飛びに冬に向って駆け出していました。
食べものも、一気に美味しくなる季節です。
今年も、いつの間にかラスト・スパートなのでしょうか・・・。画像5

(10月24日更新)

「原発のまちに生きて」(福井テレビ)のフジテレビでの放送が決まりました。
これまた早朝ともいうべき時間帯です。
昨年の日本放送文化大賞で準グランプリになった作品の続編です。
福井の人々の複雑な気持ちに迫っています。

(10月21日更新)

日本放送文化大賞の九州・沖縄地区で1位になった
「ママとぼくと信作と」(鹿児島テレビ)のフジテレビでのOA日が決まりました。
ほとんど早朝といえる時間帯です。これがドキュメンタリー番組の現状です。
この作品、1時間バージョンと1時間半バージョンがあり、
お薦めは1時間半のほうですが、今回は1時間の作品です。

(8月16日更新)

「ママとぼくと信作と」(鹿児島テレビ)が
日本放送文化大賞九州・沖縄地区で最優秀となり、中央審査に行くことになりました。
*全国7地区の代表とグランプリを競います。

(7月17日更新)

「ママとぼくと信作と~命と向き合った家族の10年~」(鹿児島テレビ) が
民間放送連盟 九州・沖縄地区テレビ報道部門で優秀賞を受賞しました。
最優秀でなくて残念でした。画像4

(6月13日更新)

日本は四方をそれぞれ特徴ある海に囲まれ、
また、山国であるため無数の川が流れています。
ですから世界でも希にみる「釣り天国」なのです。
今年も、見事な釣果がありました。・・・私が釣ったわけではありませんが。画像3

(6月7日更新)

2012年9月に放送された『いま助けてください~息子介護の時代~』(テレビ東京・ザ・ドキュメンタリー)
がTXNドキュメンタリー大賞グランプリを受賞しました。

(5月1日更新)

先日、3泊4日で地方の四都市を廻ってきました。
鹿児島弁、博多弁、京都弁、福井弁・・・どの言葉も心地よく、
改めて日本はつくづく素敵な国だと思いました。

(4月19日更新)

鹿児島テレビの打ち合わせのついでに、先祖の墓参りに行ってきました。
幕末から明治にかけて薩摩藩を支えた家老・小松帯刀公の墓もある寺。
近くには薩摩焼の窯元があります。わが故郷です。画像2

(4月8日更新)

年に何本か、地方局の仕事をします。多くても5本くらいでしょうか。
そのうちの3本が、5月の放送に重なってしまいました。
北海道、福井、鹿児島・・・4月、5月は小旅行が多くなりそうです。画像1